ブルームーンとは?

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    What is a Blue Moon?

     

    131日に見られる皆既月食は「ブルームーン」に起こる月食です。ブルームーンとは、「ひと月に2回満月があるときの、2回目の満月」とされています。

     

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    満月から次の満月までは29.5日かかります。したがって、2月以外の月では、満月が2回ある可能性があります。2018年は、131日と331日がブルームーンとなります。ブルームーンが起こる年は23年ごとにめぐってきます。

     

    ブルームーンといっても、月の色が青く変化することはありません。しかし、一時的に月が青く見えたという記録は残っています。例えば1883年、インドネシアのクラカトア火山が大噴火を起こし、大量の火山灰が大気中に巻き上げられました。火山灰の直径は約1μmで、赤い光を散乱させるため、人々は青色ないし緑色の月を目撃しました。また太陽はラベンダー色に見え、夕焼けは異常に赤かったといわれています。火山灰は成層圏に達し、長いことそこにとどまったため、このような現象は1年以上続きました。

     

    その後、1980年のアメリカのセントへレンズ、1983年のメキシコのエルチチョン、1991年のピナトゥボの火山噴火でも、青い色の月が見えたと報告されています。また、大規模な森林火災で発生した煙によっても、月が青く見えることがあるようです。

     

    もちろん、月が青く見えることなど、まれにしか起こりません。ここから、「滅多に起こらない」という意味の ”Once in the blue moon” という表現が生まれたといわれています。ブルームーンというと、エラ・フィッツジェラルドなどが歌った名曲を思い浮かべる方もいるかもしれません。この曲では、ブルームーンはさびしい孤独な心をあらわす存在となっています。しかし、この曲のブルームーンには、「ブルー=メランコリー」という意味以外に、”Once in the blue moon” という意味もこめられているのです。

     

    ところで、「ひと月に2回満月があるときの、2回目の満月」というブルームーンの定義ですが、これについては興味深いエピソードがあります。1999年のことでした。『スカイ&テレスコープ』誌の3月号と5月号に、「これまでのブルームーンの定義は間違っていた」という記事が掲載されたのです。

     

    これには、とてもびっくりしたものです。誰もが(『スカイ&テレスコープ』誌の編集者も含めて!)、ブルームーンとは「ひと月に2回満月があるときの2回目の満月」と思っていたのですから。しかも、その原因は『スカイ&テレスコープ』誌の昔の記事にあったというのです。

     

    「間違い」は、次のようにして起こりました。『スカイ&テレスコープ』誌の19437月号のコラムで、大学教員のローレンス・ラフラーがブルームーンについて触れました。彼の記事は、当時出版されていた『メイン・ファーマーズ・アルマナック』(現在出版されている『ファーマーズ・アルマナック』とは関係ないようです)という農業暦に書かれていたことをベースにしていました。

     

    『メイン・ファーマーズ・アルマナック』では、冬至をスタートとして3か月ごとを、「冬」「春」「夏」「秋」と決めていました。

     

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    各季節の満月は基本的に3回ですが、1年間に満月が13回ある年には、どこかの季節で満月が4回になります。そして、満月が4回ある季節の3回目の満月をブルームーンと呼んでいたのです。各季節の3回目の満月は、その季節がそろそろ終わることを告げるものですが、満月が4回ある場合の3回目の満月では、季節の移り変わりを告げるには早いため、このようなよび方をしたのです。この決め方では、ブルームーンが起こるのは2月、5月、8月、11月です。

     

    ラフラーは『メイン・ファーマーズ・アルマナック』に書かれているブルームーンという言葉を紹介しましたが、上に書いたような内容は説明しませんでした。その後、『スカイ&テレスコープ』誌の19463月号で、アマチュア天文学者のジェームズ・ヒュー・プルーエットがラフラーの記事について言及しました。

     

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    しかし、彼自身は『メイン・ファーマーズ・アルマナック』を読んでいませんでした。そして、「1年間に満月が13回ある年には、ある月には満月が2回ある。そのときの2回目の満月はブルームーンとよばれる」と書いてしまったのです。その後、『スカイ&テレスコープ』誌の記事やラジオ番組などで、ブルームーンの新しい(間違った)定義は世間に広まっていきました。

     

    ブルームーンとは現代のフォークロア、あるいは都市伝説といえるものです。今では伝統的なブルームーンと新しい定義の現代的なブルームーンが両方存在しています。『スカイ&テレスコープ』誌の1999年の記事が出たとき、天文学者も天文雑誌や科学雑誌の編集者も、新しい定義のブルームーンを間違いとして排除することはしませんでした。ブルームーンという、どこかミステリアスな言葉に誘われて、多くの人が天文現象に興味をもってくれればそれでいいと、皆が考えているからです。


    NASAの特別な日

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      NASADay of Remembrance

       

      今年もまた、NASA ”Day of Remembrance” がやってきました。宇宙に挑んで生命を落とした宇宙飛行士たちに思いをはせる日です。

       

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      この時期はNASAにとって特別な意味をもっています。NASAの宇宙飛行士が死亡した3度の事故がこの時期に集中しているのです。

       

      1967127日、ケネディ宇宙センターの発射台で訓練をしていたアポロ1号で火災が発生し、クルーのバージル・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィー(下の画像、左から)が死亡しました。電気系統のショートが原因でした。宇宙船内では純粋酸素が使用されていたため、炎は瞬く間に広がり、飛行士は脱出することができませんでした。このころ、アメリカは1960年代が終わらないうちに月面に人間を送るアポロ計画を強力に推し進めていたのですが、この事故でアポロ計画は一時大きな危機を迎えることとなりました。

       

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      1986128日には、スペースシャトル・チャレンジャー(51-L)が発射台を離れて73秒後に爆発し、7名のクルー、エリソン・オニヅカ、マイケル・スミス、クリスタ・マコーリフ、フランシス・スコビー、グレゴリー・ジャービス、ジュディス・レズニク、ロナルド・マクネア(下の画像、左から)の生命が失われました。原因は寒波が訪れていた時期に打ち上げたために、Oリングとよばれる固体燃料ブースターのゴム製の部品が弾力性を失い、燃焼ガスがブースターから噴き出してしまったことによるものでした。この事故によって、スペースシャトルは28か月の間、飛行が中断しました。

       

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      そして2003年の21日、地球に帰還するスペースシャトル・コロンビア(STS-107)はテキサス州上空で空中分解し、7名のクルー、デイビッド・ブラウン、リック・ハズバンド、ローレル・クラーク、カルパナ・チャウラ、マイケル・アンダーソン、ウィリアム・マックール、イラン・ラモン(下の画像、左から)の生命が失われました。事故の原因はスペースシャトル左翼前縁のRCC 耐熱材の破損によって、大気圏再突入時の高温ガスが機体内に侵入したためでした。事故後、シャトルの飛行は26か月にわって中断されました。

       

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      コロンビア事故から約1年後、NASA2機の火星探査機が火星に軟着陸しました。200414日に着陸したスピリットのハイゲイン・アンテナの裏側には、コロンビア事故で命を落とした7名をしのぶ銘板が貼られていました。また、スピリットが着陸した場所はコロンビア・メモリアル・ステーションと名づけられました。コロンビア・メモリアル・ステーションからは地平線はるかに丘陵地帯が見わすことができました。その丘陵はコロンビア・ヒルズと名づけられ、それぞれの丘にクルーの名がつけられました。スピリットはその後、その1つであるハズバンドヒルを登ることになりました。また、着陸地点の西に見えた3つの丘陵にはアポロ1号のクルーの名前がつけられました。

       

      125日に軟着陸したオポチュニティーの着陸地点は、チャレンジャー・メモリアル・ステーションと名づけられました。

       

      月の裏側にはアポロ・ベイスンとよばれる大きなくぼみがあります。このベイスンの中にあるクレーターには、アポロ1号、51-L のクルー、STS-107 のクルー、そして月着陸を目指しながら果たせなかったアポロ13号のクルーの名がつけられています。

       

      こうし地球以外の天体上の地名によっても、宇宙飛行士たちの名は永遠に歴史にとどめられています。


      サルの体細胞クローン作成に成功

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        Chinese Scientists Successfully Clone Monkeys

         

        中国の研究チームがサルの体細胞クローンを作成することに成功しました。誕生した2匹(中中と華華)の写真が公開されています。

         

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        1997年のクローン羊「ドリー」にはじまり、これまで20種以上の哺乳類の体細胞クローンがつくられていますが、人間に近い霊長類の体細胞クローンの作成はこれまで成功しませんでした。

         

        『セル』誌に掲載された論文によると、中国科学院神経科学研究所のZhen Liuらは、以下のような方法でマカク(オナガザルの仲間)の体細胞クローンを作成しました。まず、クローンをつくりたいマカクの胎児から繊維芽細胞を取り出します。一方、別のマカクから未受精卵を取り出して核を除去し、これに繊維芽細胞を注入して、融合・活性化させます。この体細胞クローン胚を仮母となるマカクの子宮に移植するのですが、Zhenらはその前に、体細胞クローン胚をヒストン脱アセチル化酵素阻害剤トリコスタチンAの溶液に10時間ほど浸け、さらにヒストン脱メチル化酵素Kdm4d をつくるmRNAを胚に注入しました。

         

        体細胞クローン技術では、成功率の低さが大きな課題になっています。これは体細胞のDMAのメチル化が外れず、胚の初期化がなかなか行われないためです。そのため、Zhenらはメチル化を消去するため、トリコスタチンAKdm4dを使ったわけです。

         

        論文によると、こうして作成した79個のマカクの体細胞クローン胚を21匹の仮母に移植したところ、そのうち6匹が妊娠し、2匹のクローン(中中と華華)が誕生しました。

         

        Zhenらはマカクの成体の卵丘細胞についても、同じ方法を用いてみました。181個の体細胞クローン胚を42匹の仮母に移植したところ、そのうち22匹が妊娠し、2匹のクローンが誕生しましたが、短命に終わりました。

         

        この結果をみると、霊長類の体細胞クローン作成の成功率は低く、また、成体の体細胞ではうまくいっていません。まだ多くの課題が残っていることがわかります。

         

        Zhenらは、霊長類のクローンはがんやアルツハイマー病などヒトの難治疾患の治療法を研究するモデルとして有用であるとしていますが、アメリカやヨーロッパ、日本などでは、霊長類を実験動物として使う研究は、動物倫理の面からも制限されているのが現状です。霊長類のクローンを使わなければできない研究があるかどうか、疑問を呈する研究者もいます。実験動物としての霊長類をいたずらに作成することは、あってはならないことです。この点にいては、今後議論が必要と思います。

         

        今回の成功によって、ヒトのクローンを作成する技術に一歩近づいたことになりますが、この点に関しては倫理的な壁が高く、今のところ、人のクローンをつくろうと考えている研究者はいないといってよいでしょう。


        スーパー・ブルー・ブラッド・ムーン

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          Super Blue Blood Moon

           

          131日の夜、皆既月食が見られます。この日は「スーパームーン」であり、「ブルームーン」でもあるので、150年に1回しかない「スーパー・ブルー・ブラッド・ムーン」を見ることができます。

           

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          地球をまわる月の軌道はわずかな楕円のため、地球に一番近い「近地点」で満月になる場合と、一番遠い「遠地点」で満月になる場合があります。前者を「スーパームーン」とよんでいます。スーパームーン時の月の見かけの大きさは、遠地点での満月に比べて面積で約14%大きくなります。明るさは約30%も明るくなります。厳密には201812日がスーパームーンでしたが、その前後の満月(2017124日と2018131日)もほとんど同じくらい地球に近づいているので、この3つは連続した3回のスーパームーンとされています。

           

          1か月に満月が2回ある場合、後の方の満月がブルームーンとよばれています。月の色が青く見えるわけではありません。

           

          その「スーパー・ブルー・ブラッド・ムーン」ですが、131日の2048分頃からかはじまり、21012分まで続きます。皆既食になっているのは2151分から238分まで、1時間以上あります。

           

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          月食がはじまる頃、すでに月は南東の空高くにあり、月食が終わる頃には、月は南の空高くに上っています。観測の時間帯も良いので、雲さえ無ければ、子供さんでも忙しい方でも、無理せずに見るチャンスがあるでしょう。


          『サリュート 7』:ソ連時代の宇宙開発を楽しむ

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            Salyut 7CCCP in Space

             

            ソ連時代の宇宙ステーション、サリュート7号のレスキュー・ミッションを題材にした『サリュート 7』を観てきました。素晴らしい映画でとても楽しめました。

             

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            もちろんこの作品は完全なドキュメンタリー映画ではありません。実際に何があったかは、ここここここを読んでいただければ、おわかりになると思います。

             

            『サリュート 7』について少しふれると、この作品で重要な役割を演じている管制センター(TsUP)のフライト・ディレクターは、宇宙飛行士のワレリー・リューミンがモデルになっています。サリュート内がどのくらい寒いかを調べるために唾をはくシーンが出てきますが、実際にあったエピソードのようです。サリュート内に隠してあったウォッカを飲むシーンも出てきました。現在の国際宇宙ステーション内ではアルコール禁止です。ソ連時代の宇宙ステーションでも禁止されていましたが、宇宙飛行士はひそかにウォッカやブランデーを持ちこんでいました。宇宙飛行士本人から聞きましたから、間違いありません。時代は違いますが、ソユーズ1号のコマロフと妻ワレンチナの会話のエピソードも使われています。

             

            地上から送られてきた音楽は、Zemlyane(ゼムリャーネ)の「トラヴァ・ウ・ドーマ」(わが家の芝生)です。今でも宇宙飛行士がコスモノート・ホテルを出発する際に必ず流される音楽です。コスモノートのテーマソングといえるでしょう。

             

            エンドロールでは、ソユーズT-13号ミッションのフッテージが流され、ジャニベコフやサビヌイフ、そしてリューミンなどの姿が見られました。久しぶりにソ連の宇宙開発の世界にひたることができました。こうした映画を観ると、長い間、宇宙開発を取材してきてよかったと思います。


            サリュート 7:危険に満ちたレスキュー・ミッション(3)

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              Salyut 7Risky Rescue Mission (3)

               

              ソユーズT-13号のクルーは、サリュート7号との危険なドッキングに挑戦しなければなりませんでした。

               

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              通常の飛行では、ソユーズ宇宙船はまず地上から送られてくる追跡データをもとにサリュートに接近していきます。ソユーズとサリュートの距離が2025kmになると、自動ドッキング装置イグラが作動し、サリュートとソユーズは位置情報を交換しながら最終接近し、自動でドッキングします。しかし、今回はソユーズが単独で最終接近とドッキングを行わなくてはなりません。ジャニベコフはサリュートから距離3kmまで来たところで、操縦をマニュアルに切りかえました。ソユーズの姿勢をサリュートに対して横向きにし、窓からサリュートを目視しながら、少しずつ接近していきます。サビヌイフは刻々と変化するレーザー測距計の計測値をコンピューターに入力し、軌道計算をし続けました。

               

              ジャニベコフは距離200mまで接近したところでソユーズT-13号を停止させ、TsUPからの指示を待ちました。許可がでると、ジャニベコフは再び接近を開始し、サリュートの前部ドッキングポートの真正面にソユーズを移動させました。サリュートの姿はビデオカメラの画面と、コマンダー席にあるペリスコープでとらえることができます。その後、ジャニベコフはソユーズに回転を与えてサリュートの回転に合わせると、ゆっくりとソユーズを前進させました。

               

              この時の交信記録が残っています。「距離200m。エンジン作動。秒速1.5mでステーションに接近中。ステーションの回転はノミナル、安定している。捕捉した。われわれの回転を始める。太陽の位置が悪くなってきた・・・少し良くなった。ドッキング・ターゲットの軸が一直線になった・・・減速・・・コンタクト待ち」。ジャニベコフの言葉に続き、サビヌイフがTsUPに連絡してきました。「コンタクト。ドッキングした」。サリュートとソユーズは夜の領域に入っていましたが、ドッキングは最初の試みで見事に成功しました。

               

              2人はソユーズのハッチを空けました。まずサリュートのエアロックのハッチにあるピットホールを空けて、ソユーズとエアロックの気圧を等しくします。次にエアロックのハッチを開いて内部に入り、サリュート側のハッチのピットホールを空けて、内部の空気をサンプリングしました。有毒なガスが含まれていないかを調べるためです。有害ガスは認められませんでしたが、TsUPは念のため、2人がサリュート内に入る際にはガスマスクを着用するよう指示しました。防寒具を着用しガスマスクを着用した2人は、安全を確かめながらサリュート側のハッチを空けると、内部に入りました。

               

              サリュートの電源は切れ、内部は真っ暗でした。ひどく寒く、−10Cほどだったといわれています。水は凍っており、生命維持装置は動きませんでした。テーブルにはソユーズT-10 号のクルーが残していったクラッカーと塩のタブレットが置かれていました。新しく来たクルーを歓迎するためのロシアのしきたりです。

               

              ジャニベコフとサビヌイフは、わずかな小休止と体を暖めるためにソユーズに戻る以外は、ほぼ24時間働き続けました。「無重量状態では、生命維持装置のファンが動かないと、自分の吐いた炭酸ガスが大きなボールのようになって自分を包んでしまう。すると頭が痛くなり、手足が重くなり、眠くなる」と、ジャニベコフは語っています。そのため、作業は1人がサリュート内で行い、もう1人はソユーズで待機するという方法で行われました。サリュート内の作業で二酸化炭素中毒の症状が現れた場合、もう1人がすぐに救出できるようにするためです。下の画像は、サリュート7号にドッキングしたソユーズT-13号内のジャニベコフです。

               

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              下の画像は、サリュート内で作業するサビヌイフです。

               

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              サリュートには8個のバッテリーが積み込まれていました。そのうち6個は再充電が可能な状態でした。2人は太陽電池パネルからのケーブルをバッテリーに直接接続しました。こうした細かい作業は手袋をしていては能率が良くないため、2人は寒いにもかかわらず素手で作業をしたといいます。2人には急ぐ必要がありました。彼らが持ってきた水の量に限りがあり、それが尽きない間にサリュートを復旧させなければ、彼らは作業を中止して帰還しなければならなかったのです。

               

              太陽電池パネルとバッテリーの接続が終わると、ジャニベコフはソユーズを操縦し、太陽電池パネルが太陽の方向を向くようにサリュートの姿勢を変えました。1日後に5個のバッテリーの充電が終わり、2人はそれらをサリュートの電源系統に接続しました。スイッチを入れると、サリュート内の照明がつきました。サリュートのシステムは1つずつ復旧していき、613日、TsUPはサリュートとのコンタクトを回復しました。

               

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              ジャニベコフとサビヌイフは船外活動を行って、追加の太陽電池パネルを2枚、設置しました。また、交換が必要な部品や生活物資がプログレス補給船で運ばれてきました。

               

              こうして、サリュートは機能を回復しました。後の調査で、サリュートが電源を喪失した原因は、バッテリーがフル充電状態になると、太陽電池パネルとの接続をシャットダウンするセンサーの1個の不具合にはじまり、いくつかの事象が連鎖的に起こったためであることがわかっています。

               

              1985918日、ソユーズT-14 号がサリュートにやってきました。ジャニベコフは110日を宇宙で過ごし、ソユーズT-14 号でやってきたゲオルギー・グレチコとともに、926日にソユーズT-13号で地球に帰還しました。一方、サビヌイフは宇宙滞在を続けました。

               

              危険でこみいった任務を終えて、ジャニベコフは星の町に戻ってきました。下の画像は、星の町で行われた歓迎の様子です。当時はクルーが宇宙から帰還すると、こうしたセレモニーが行われていました。一番右がジャニベコフ、その隣は2人の娘インナとアリョーナ、そして妻のリリヤ、その左はグレチコとその家族です。きびしい訓練の合間に、ジャニベコフはよく妻や娘たちと近くの森に散歩に出かけたものでした。

               

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              過去5回の飛行でとれが最も困難であったかと聞かれて、ジャニベコフは次のように答えています。「たやすい宇宙飛行というものを期待してはいけません。現在も、近い将来も。宇宙飛行はきわめてコストがかかるので、限られた数の人間が非常に多くの役割をこなさなければならないのです」。

               

              その困難な宇宙飛行の意義を、彼は次のように語っています。「ガガーリンは初めて宇宙を飛んだ。チトフは初めて24時間も宇宙にいた。レオノフは初めて宇宙遊泳をした。彼ら以前には不可能だったものが、彼ら以後には可能になったのです。不可能から可能へのこの飛躍こそが進歩を実現し、未知の壁を打ち破るのです」。

               



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