サリュート 7:危険に満ちたレスキュー・ミッション(1)

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    Salyut 7Risky Rescue Mission (1)

     

    ソ連時代の宇宙ステーション、サリュート7号のレスキュー・ミッションを描いたロシア映画『サリュート 7』が東京でも公開されます。このレスキュー・ミッションについては『ファイナル・フロンティア――有人宇宙開拓全史』でも書きましたが、ここでもう少し詳しくご紹介しましょう。

     

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    1969年、アメリカとの月着陸競争に敗れたソ連は、アメリカに対抗する新たな手段としてサリュート宇宙ステーション計画をスタートさせました。また、月への乗員輸送のために開発されたソユーズ宇宙船を、地球とサリュート宇宙ステーションを往復するために使うことにしました。

     

    軍用に開発されていた宇宙ステーション「アルマズ」をベースにしたサリュート1号が打ち上げられたのは、19714月のことでした。以後、ソ連は次々にサリュートを打ち上げ、宇宙での長期滞在体制を実現していきました。特に大きな成果を上げたのは19779月に打ち上げられたサリュート6号です。サリュート6号は名部が大幅に改良された第2世代のサリュートで、最大の特徴は前部と後部にそれぞれドッキングポートが設置されたことでした。これによって、クルーが滞在中に交代用のソユーズ宇宙船や無人補給船をドッキングさせることが可能になりました。

     

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    サリュート6号は宇宙滞在日数の記録を次々と更新し、レオニード・ポポフとワレリー・リューミンは184日間を宇宙で暮らしました。1972年にアポロ計画を終了させたアメリカがスペースシャトルを開発している間に、ソ連は宇宙に長期間滞在するための手段を確立し、地球周回軌道上に圧倒的なプレゼンスを築いていったのです。

     

    居住性をさらに改良したサリュート7号が打ち上げられたのは19824月です。7号まで打ち上げられたサリュート宇宙ステーションのうち、1号、2号、3号、5号は軍用サリュートで、アルマズ宇宙ステーションによる軍事ミッションでした。一方、4号、6号、7号はコロリョフ設計局が開発した民生用サリュートで、6号と7号はミール宇宙ステーションのコアモジュールをへて、国際宇宙ステーションのサービスモジュール(ズヴェズダ)へと発展していくことになります。サリュート7号のサイズは6号と同じで、全長は16m、直径は約4m、前後のドッキングポートに宇宙船が結合すると、その長さは30mにもなりました。

     

    ソユーズ宇宙船も改良され、1979年にはT型が登場しました。1971年のソユーズ11号の事故後、2人乗りに変更されていた座席は、再び3人乗りになりました。

     

    19825月に打ち上げられたソユーズT-5号に搭乗し、サリュート7号にドッキングしたアナトリー・ベレゾボイとワレンチン・レベデフは211日間を宇宙に滞在しました。ベレゾボイはサリュート7号の印象を次のように語っています。「サリュート7号は6号と外見はそっくりである。しかし、中に入るとまるで違う。照明は明るく、快適で居心地がよい。壁のパネルは明るい色で塗装されている」。

     

    ソユーズT型とサリュート7号によって、いくつもの歴史的宇宙飛行が行われています。19826月に打ち上げられたT-6号は、ウラジーミル・ジャニベコフがコマンダー、アレクサンドル・イワンチェンコフがフライト・エンジニアをつとめ、さらにフランスの宇宙飛行士ジャンルー・クレチアンが乗りこんでいました。ソ連の有人宇宙飛行に社会主義圏以外の国の宇宙飛行士が参加したのはこれがはじめてでした。下の画像はソユーズT-6 号のクルーで、左からイワンチェンコ、ジャニベコフ、クレチアンです。

     

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    19828月、ソユーズT-7号が宇宙へ飛び立ちました。クルーはレオニード・ポポフ、アレクサンダー・セレブロフ、そしてスベトラーナ・サビツカヤでした。サビツカヤはテレシコワ以来の女性宇宙飛行士でした。

     

    198428日に打ち上げられたソユーズT-10号のクルーはレオニード・キジム、ウラジーミル・ソロビヨフ、オレグ・アチコフで、3人はサリュート7号で236日間を過ごしました。

     

    1984717日、ウラジーミル・ジャニベコフ、イゴール・ウォルク、スベトラーナ・サビツカヤの乗ったソユーズT-12号が打ち上げられ、サリュート7号にドッキングしました。サビツカヤはこの飛行で、世界で初めて宇宙を2回飛んだ女性宇宙飛行士となりました。彼女はまた、サリュート7号に滞在中、女性宇宙飛行士として初めての船外活動を行いました。下の画像の真ん中がサビツカヤ、その左がジャニベコフ、右がウォルクです。

     

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    1984729日、ソユーズT-12号で地球に戻ったジャニベコフには、19853月末、次のソユーズT-13号のコマンダーの任務が与えられました。深刻な事態が発生していたのです。サリュート7号に長期滞在していたソユーズT-10号のクルーが1984102日に帰還した後、無人になったサリュート7号に不具合が発生して地上との連格が途絶、サリュート7号は漂流を始めていました。

     


    2017年は観測史上2番目に暑い年だった

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      2017The second warmest year in the record

       

      2017年は近代的な気象観測がはじまった1880年以来2番目に暑い年だったと、NASA が発表しました。19511980年の世界平均気温にくらべて0.90C 高かったとのことです。これまでで最も暑かった年は2016年です。

       

      下の画像は2013年〜2017年の世界平均気温を1951年〜1980年の世界平均気温と比較したマップです。青色は気温が低くなっている場所、黄色から赤にかけての領域は気温が高くなっている場所です。世界平均気温の上昇は北半球の高緯度地域で顕著であることがわかります。

       

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      NOAA(国家海洋大気局)は、2017年は観測史上3番目に暑い年だったと発表しました。結果に差が出るのは、観測データの処理の方法が異なるためです。しかし、どちらのデータ解析も、史上5番目までの暑い年が2010年代に集中している点に関しては一致しており、地球温暖化が急速に進行していることは明らかです。


      ナスカのミステリー(2):地上絵に一生をささげた女性研究者

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        Nazca’s Mystery (2)The Lady Who Saved the Lines

         

        ナスカの地上絵は長い間知られずにいましたが、1926年に、この地域の上空を飛んだパイロットによって発見されました。1941年にアメリカ、ロングアイランド大学の歴史学者ポール・コソックが古代の灌漑システムを調査するため、この地を訪れ、地上絵と出会いました。コソックが帰国する際、彼の研究を引きついだのが、当時リマの国立博物館で働いていたマリア・ライヘでした。

         

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        マリア・ライヘは1903年、ドイツのドレスデンに生まれました。大学では数学を学び、27歳のときにペルーにやってきました。家庭教師などで生活費を稼ぎ、1937年にリマの国立博物館で働きはじめました。コソックが調査に来たとき、彼女はコソックの現地助手をつとめたのです。1946年、マリアは地上絵の調査を開始し、以後、地上絵の研究と保存に一生をささげました。マリアの研究とその著書“Mystery on the desert”によって、ナスカの地上絵は世界に知られることになりました。

         

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        Mystery on the desert”で彼女はこう書いています。「インカの時代の数世紀前、南ペルーの海岸近くに住んでいた人々は、とても独特なモニュメントをつくった。その大きさと正確な直線は、エジプトのピラミッドを連想させる。しかし、それはピラミッドのように高くそびえているのではなく、幾何学模様が数マイルにわたって平原に広がっているのである。まるで巨人が特大の物差しを使って描いたかのように」。

         

        また、こうも書いています。「リマからチリあるいはアレキパに向かうプロペラ機は、運がよければ、途中でコルディレラ山脈の西斜面に沿って飛んでくれる。地上を見下ろすと、そこには褐色の大地に明るい色で描かれた三角形や四角形、台形などが見える。その多くは飛行場によく似ている。小型機かヘリコプターでもっと低空を飛べば、さらにたくさんの直線や三角形、四角形からなる模様が見えてくる。直線は交差したり、並行に走ったり、放射状に広がったりしながら複雑なネットワークをつくっている。そしてそれらの直線的な模様の間に、動物をあらわす模様がある。それらは高度1500フィートからも明瞭に認められ、その大きさをうかがい知ることができる。これらの線や形が人工的なものであることは明らかだ。それらは何世紀もの間、昔のままで、誰にも発見されずにきた。サイズがあまりに大きいため、地上から見つけることができなかったのだ」。

         

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        巨大な地上絵を描くためには、古代人には不可能な高度な技術が必要だという意見もありますが、実際はそれほどむずかしくはありません。まず小さな絵を描き、これを拡大していく方法で描いたのだと、マリアは説明しています。実際、その作業に使われたと考えられる古い杭が埋まっているのが発見されています。

         

        ナスカの人々は、いったい何の目的のために地上絵を描いたのでしょうか? いくつかの考えがあり、中には異星人の宇宙船の発着場という荒唐無稽の説さえあります。マリアは、地上絵は天文現象と関連があり、古代のカレンダーだったのではないかと述べています。その根拠の1つとしてマリアは、描かれた直線の中に、夏至や冬至の日の出、日の入りの方角を示すものがあることを上げています。農耕をいとなんでいた古代ナスカの人々にとって、農作業をはじめる時期を知ることは重要だったと考えられます。

         

        このアイデアは、コソックが調査で訪れた621日、南半球の冬至の日に、ある線の延長上に太陽が沈むのを目撃したことにさかのぼります。マリアはさらに、おおぐま座やオリオン座などの星座に関連した線もあるとしています。ただし、無数といってよい線からは、任意の方向の線を選ぶこともでき、この説には困難な面もあります。現在では、研究者の多くは、地上絵は儀式の時に用いた聖なる道ではないかと考えています。また、地上絵の一部は地下水脈の位置を示すものだという研究もあります。

         

        マリアは地上絵を保存するため、ほうきで線をはいてきれいにしていました。いつもほうきを持っていたため、マリアは魔女であるという噂がでるほどでした。

         

        1994年、ナスカの地上絵は世界遺産に登録されました。マリア・ライヘは1998年に95歳で亡くなり、遺体は地上絵の近くに埋葬されました。


        ナスカのミステリー(1):砂漠に広がる巨大な地上絵

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          Nazca’s Mystery (1)Lines on the Desert

           

          ペルーの首都リマから南に約400km。アンデス山脈のふもとのナスカ台地に、巨大な地上絵が残されています。

           

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          ナスカ台地はアンデス山脈からの流れがつくった扇状地が砂漠になった土地で、雨はほとんど降りません。飛行機から見ると、まるで他の惑星に来たような荒涼とした風景が広がっています。面積は220平方kmほどで、北はインヘニオ川に、南はナスカ川によって区切られています。下の画像はナスカ台地の北半分です。

           

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          ナスカ台地には1000本以上の直線や多数の四角形、三角形、渦巻きやジグザグなどの幾何学模様、さらにはさまざまな動植物が描かれています。それらはみな巨大で、直線の中には長さ8km以上におよぶものもあります。くさび型をした四角形の最大のものは長さ1.6km、動物などの絵柄でも全長が100mをこえるものがあります。現在もいくつかの地上絵が新たに発見されています。

           

          地上絵のほとんどは、無数とも思える直線です。これらはランダムに分布しているわけではなく、ある点から放射状に広がる傾向を示しています。このような直線が放射状に広がるポイントとして、合計62か所が確認されているといいます。直線や細長いくさび型をした四角形などはナスカ台地に広く分布しています。

           

          一方、動物や植物の絵柄は、インヘニオ川に近い台地北端約10平方kmの地域に集中しています。そこにはサル、クモ、イヌ、コンドル、ハチドリ、サギ、トカゲ、ヘビ、クモ、トンボ、クジラ、シャチ、トンボ、クモ、サルなどの動物や、花や海藻などの植物、渦巻きなどの模様が描かれています。クモやサル、トリ、渦巻きなどは、アンデス一帯では古くから水に関するシンボルであったといわれています。動物や植物の絵柄はナスカの地上絵全体からみると、その数は少なく、全部で30個ほどです。これらの動植物はみな、古代ナスカの人々の生活に深い関係があったものなのでしょう。

           

          砂漠の上に描かれた動物たちや植物、幾何学模様は、一筆書きの単純な線画ですが、それぞれの特徴がみごとにとらえられており、きわめて印象的です。ナスカの地上絵がわれわれをひきつけてやまないのは、巨大さだけではなく、その芸術性にもあるのです。

           

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          これらの地上絵を描いたのは、紀元前100年ごろから紀元500年ごろまでこの土地に栄えていたナスカ文化をになった人々です。ナスカ文化は独特の装飾やあざやかな色彩をもつ陶器で知られており、それらの陶器には地上絵と同じような模様や動植物が描かれています。ナスカの人々はインヘニオ川やナスカ川両岸の峡谷でトウモロコシや綿花の農耕を営んでいましたが、自生していたキアベの森林を伐採しすぎたため、エコシステムが破壊され、この地から姿を消したと考えられています。

           

          ナスカ台地は表面10cmほどが、酸化して黒味を帯びた小石でおおわれていて、その下の土は白っぽい色をしています。ナスカの地上絵は表面の黒い石を取り除いた白い線で描かれています。取り除いた小石は縁に並べられ、図形の輪郭を強調することに使われていました。ナスカ台地は世界で最も乾燥した場所のひとつであるため、地上絵は2000年にわたってそのままの姿を保ってきました。


          天宮1号の地球落下は3月か

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            China's Tiangong-1 falls to Earth in March

             

            制御不能になっている中国の軌道上実験モジュール、天宮1号は、現在1日に約160mずつ高度を下げています。2017年末の段階では天宮1号の大気圏再突入は20181月か2月と予測されていました。しかし、アメリカの非営利団体エアロスペース・コーポレーションの最近の発表によると、大気圏再突入は3月で、最も確率が高いのは3月中頃とのことです。201813日現在の天宮1号の高度は遠地点が293km、近地点が270kmとなっています。

             

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            天宮1号は全長10.4m、重量8.5tで、大気圏に再突入した際、大部分は分解し、燃えつきてしまいますが、破片の一部は燃えつきずに海上または地上に落下する可能性があります。1997年には、電源に原子炉を使用していたソ連の衛星の一部がカナダに落下したことがあります。また、1998年にはアメリカの宇宙実験室、スカイラブの破片がオーストラリアに落下しました。

             

            天宮1号の軌道傾斜角は約43度です。したがって、赤道をはさんで北緯43度から南緯43度の間のどこかに破片が落下する可能性があります。ただし、大気圏再突入の直前にならないと、どこに落ちてくるかはわかりません。北緯43度というと、北海道の一番南にあたりますので、本州、四国、九州、沖縄が落下領域に含まれます。ただし、日本に落下する確率は1000分の1以下です。

             

            天宮1号は主に神舟宇宙船のドッキング・ターゲットとして用いられた軌道モジュールです。搭載した実験装置や観測装置の数も限られており、燃えつきずに落下してくる破片が多いとは考えられません。また破片は1か所に落ちてくるわけではなく、落下する経路にそってばらばらと落ちてきます。したがって、破片による人命被害や物的被害を過度に心配する必要はありません。

             

            天宮1号の姿勢制御や軌道変更を行うロケットエンジンは、燃料にヒドラジンを使用しています。ヒドラジンは強アルカリ性の有害物質で、これに触れると、皮膚や粘膜はただれたり火傷のような状態になったりします。また、吸いこんだ場合には肺の組織が損傷したり、呼吸困難におちいったりします。1996年には中国の長征3Bロケットの打ち上げが失敗し、ロケットは発射直後に近隣の村に落下しました。燃料のヒドラジンによって多数の死亡者が発生しました。

             

            天宮1号の燃料タンクにはまだヒドラジンが残っている可能性があります。大気圏再突入の際、燃料タンクは破壊され、ヒドラジンはすべて燃えてしまうと考えられますが、タンクが破壊されずに地上に落下した場合は、接触しないように注意が必要です。

             

            天宮1号のような大きな宇宙構造物は、運用終了後、太平洋に制御落下させるのが常識です。2001年、ロシアはソ連時代から運用していた重量120t以上のミール宇宙ステーションを、南太平洋に制御落下させました。燃えつきなかった破片は海上に落下しましたが、何の被害もありませんでした。中国も当初、天宮1号の制御落下を考えていましたが、20163月に制御不能となりました。姿勢制御システムに不具合が生じ、太陽電池パネルが太陽の方向に向けることができなくなったようです。このため、バッテリーに充電できず、電源が落ちてしまいました。中国は今後、独自の宇宙ステーションの建設を計画しています。運用終了後の軌道モジュールを安全かつ確実に制御落下させる能力をもつことは、中国の宇宙開発にとって大きな課題です。

             

            天宮1号が周回しているあたりの宇宙空間にも、ごくわずかですが大気の成分が残っています。その抵抗を受けて、天宮1号は次第に高度を下げているのです。地球をまわる人工衛星や宇宙船などが大気の影響をまったく受けなくなるのは高度600km以上といわれています。天宮1号が現在周回しているあたりの高度では、大気の主成分は酸素原子です。酸素原子の濃度はその時の太陽活動などによって変動するため、天宮1号が受ける大気の抵抗も変動します。したがって再突入時期を正確に予測することは困難です。3月という予測はあるものの、天宮1号がいつ再突入するか、用心して見守る必要があります。


            フォトグラフ51:ロザリンド・フランクリンとDNA

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              Photograph 51:Rosalind Franklin and DNA

               

              『フォトグラフ51』が日本でも公演されることになりました。「フォトグラフ51」とは、ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見する上で決定的な役割を果たした、DNAのX線回折写真のことです。『フォトグラフ51』は2010年10月27日から11月21日まで、ニューヨークのアンサンブル・スタジオ・シアターで初公演されました。

               

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              現代生物学の基礎となったDNAの二重らせん構造発見の経緯については、ワトソン自身の著書『二重らせん』に生き生きと書かれています。1951年、イギリス、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所にやってきたワトソンは、自分に本来与えられた研究とは別に、クリックと一緒にDNAの構造を解明する研究をはじめます。それこそが遺伝のしくみを解き明かす鍵と考えたからです。その頃ロンドンのキングス・カレッジではモーリス・ウィルキンスがDNAを研究していましたが、1950年にキングス・カレッジにやってきた同僚のロザリンド・フランクリンとの人間関係がうまくいかない困難を抱えていました。フランクリンはX線回折の専門家で、キングス・カレッジでDNA結晶の鮮明なX線回折写真を撮りはじめていました。

               

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              フランクリンのX 線回折写真を見たワトソンは、DNA が二重らせん構造をもっていることを確信し、これが世紀の発見へとつながりました。そのX線写真がフォトグラフ51です。

               

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              DNAの二重らせん構造に関するワトソンとクリックの論文は『ネイチャー』誌の1953年4月23日号に発表され、1962年、ワトソンとクリック、ウィルキンスはDNAの構造決定の業績によりノーベル医学・生理学賞を受賞しました。そのときフランクリンは卵巣がんですでに他界していました。彼女が研究で使っていたX線のためともいわれています。

               

              1975年、フランクリンと親交のあったアン・セイヤーは ”Rosalind Franklin and DNA”(『ロザリンド・フランクリンとDNA――ぬすまれた栄光』)を出版しました。この本は、『二重らせん』の中でフランクリンに関してワトソンが書いていることへのいわば反論として書かれたものです。セイヤーは、『二重らせん』や『ネイチャー』論文では、彼女の業績が正当に評価されていないこと、『二重らせん』でワトソンが描いているフランクリン像は一面的であり、実際のフランクリンは人間的にも素晴らしい女性であったことなどを述べています。

               

              二重らせん発見に関するフランクリンの業績に関しては、今では正しい評価がなされていると思いますが、1970年代にはアン・セイヤーの邦訳のサブタイトルにあるように、ワトソンとクリックはフランクリンの業績を盗んだという見方もあったのでしょう。しかし、この点についてはワトソンたちが目指していたものと、フランクリンが考えていた研究の進め方が異なっていたということに注意しなくてはなりません。ワトソンとクリックはDNA の構造を明らかにすることこそが、遺伝現象を分子レベルで解明するために最も大事であると考えていました。一方、フランクリンは当時、より鮮明なX 線回折写真を撮ることに高い優先度を置いていたようです。私は1981年にワトソンが来日した折、彼にインタビューしましたが、そのとき、ワトソンは自分からフランクリンについて話をはじめ、(もしも彼女がDNA の構造解明を最優先に考えていれば)「彼女も二重らせんを発見できたはずだ」と語っています。

               

              『二重らせん』でのワトソンの記述がフランクリンの人格を傷つけているというセイヤーの主張に、私は賛成しません。ワトソンやウィルキンスを拒絶する様子が多少誇張されて書かれているとはいえ、彼女が一流の科学者であり、人間的にもすぐれた人物であったことは『二重らせん』を読んだだけでもわかります。なお、フランクリンの一生については、ブレンダ・マッドクスが2002年に、”The Dark Lady of DNA”(『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』)というすぐれた伝記を出版しています。ちなみに、私はセイヤーの邦訳に加えられたサブタイトル「ぬすまれた栄光」と、マドックスの邦訳のタイトル「ダークレディと呼ばれて」については、著者の意図以上のものが感じられ、あまり気に入っていません。

               

              『フォトグラフ51』では、フランクリンを主人公に、当時の研究室での人間模様が演じられます。ニコール・キッドマンがフランクリン役を演じて有名になってしまいましたが、2010年にアンサンブル・スタジオ・シアターで公演されたときにフランクリン役を演じたのはクリステン・ブッシュでした。

               

              なぜ『フォトグラフ51』が多くの人の心を引き付けたのか。私には『ロザリンド・フランクリンとDNA――ぬすまれた栄光』の解説で中村桂子氏が書いている以下の文が、その答に最もふさわしいような気がします。「『二重らせん』と本書は、三人のあいだの葛藤を通して、知識の追求に明け暮れる冷たい世界と思われがちな科学研究の場が、いかに人間臭い、個性と個性のぶつかり合いの場であるかを示してくれたからこそ興味深い読み物なのかもしれない」

               

              『サイエンティフィック・アメリカン』誌の当時のブログは、公演が行われている最中の2010年11月2日に、この演劇をめぐってアンサンブル・スタジオ・シアターのすぐ近くで行われたパネル・ディスカッションを紹介しています。このパネル・ディスカッションには『ニューヨーク・タイムス』紙の科学記者マイケル・ウェイド、カリフォルニア州立大学の生物学学者リン・エルキン、ラトガーズ大学の生物学者ヘレン・バーマン、そして『フォトグラフ51』の脚本を書いたアンナ・ジーグラーが出席し、コロンビア大学の生物学者スチュアート・ファイアスタインがモデレーターをつとめ、かつてアン・セイヤーが提起した点が改めて議論されました。

               

              このパネル・ディスカッションにはワトソンも出席する予定だったのですが、コールド・スプリング・ハーバー研究所での会議出席のために参加できませんでした。しかし、同じ『サイエンティフィック・アメリカン』誌のブログは、『ニューズウィーク』誌のアンナ・クッシュメントが11月16日に、ワトソンやコールド・スプリング・ハーバー研究所のヤン・ウィトコウスキー、アレックス・ガンらと食事をしたときの会話が紹介されています。

               

              ワトソンだけでなく、ウェイドもウィトコウスキーもガンも、私にとってはマンハッタンやロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所で何度も会ったことのある、なつかしい人たちです。50年以上前のことではあるものの、科学の世界の重要な発見につながったドラマチックな出来事が、オフブロードウェイの小さな劇場で演じられ、それについて科学者やジャーナリストが熱心に議論し、最後には当のワトソンまでがロングアイランドから出かけてきて議論に参加してしまうニューヨークという街は、やはり世界の他のどこにもない魅力をもっています。

               



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