アポロ13号:Failure is not an option

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    Apollo 13:Failure is not an option

     

    アポロ13号の劇的な帰還に関しては、ヒューストンのミッション・コントロール・センター(MCC)が大きな役割を果たしました。

     

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    アポロ13号ミッションで、主任フライト・ディレクターとしてMCCのホワイトチームを率いたジーン・クランツは、アポロ13号のクルーとともに大統領自由勲章を授与されています。彼のトレードマークはクルーカットの髪と、ミッションにかかわる人々に敬意を表して着用していたベストでした。上の画像で、手前右にいるのがクランツです。

     

    アポロ13号にまつわる言葉として有名なのが ”Failure is not an option”(失敗という選択肢はない)です。この言葉はヒューストンではとても有名で、スペースセンター・ヒューストンに行くと、Tシャツやマグカップ、ポストカードなどにこれを使ったおみやげ品がたくさん並んでいます。

     

    ”Failure is not an option” は時としてジーン・クランツの言葉とされますが、実際はトム・ハンクス主演の映画『アポロ 13』(1995年公開)の制作時に誕生したものです。『アポロ13』は、アポロ13号の船長だったジェームズ・ラベルの著書『Lost Moon』の映画化でした。細部に事実と異なるところがあり、ハリウッド流の演出が気になる点はあるものの、よくつくられた映画だと思います。私が一番気になったのは、トム・ハンクスが実際のラベル船長にぜんぜん似ていないことでした。

     

    さて、『アポロ13』がつくられる前、2名の脚本家がヒューストンを訪れ、アポロ13号当時のフライト・コントローラーであり、『アポロ 13』のテクニカル・アドバイザーをつとめたジェリー・ボスビックに取材しました。「MCCの人たちというのは、どのような人種なのですか」「パニックになることはあるのですか」といった質問に、ボスビックは「何か悪いことが起きたとき、私たちは冷静にすべての選択肢を考えました。失敗はそれらの選択肢の中にはありませんでした。私たちはパニックになることはありません。解決策を見つけることをあきらめたことはありませんでした」と答えました。

     

    ボスビックの言った ”we just calmly laid out all the options, and failure was not one of them” は、いたく彼らを刺激したようです。「映画のキャッチフレーズはこれだ!Failure is not an option。あとはこれを誰の台詞にするかだ」。こうして『アポロ13』で、ジーン・クランツを演じたエド・ハリス(こちらは本人に似ていました。もっと似ていたのはディーク・スレイトン役のクリス・エリスでしたが)が、”We’ve never lost an American in space and we’re sure as hell not gonna lose one on my watch! Failure is not an option!”  と皆に檄を飛ばすシーンが誕生したのです。

     

    ”Failure is not an option” が多くの人に勇気を与える言葉であることは間違いないでしょう。ジーン・クランツ自身も、ミッション・コントロールの任務を的確に表現する言葉として ”Failure is not an option” が気に入ったようで、2000年に出版された彼の著書のタイトルに使っていますし、本の中でも、3か所にこの言葉が出てきます。ミッション・コントロールでは、実際には “option” ではなく ”workaround” という言葉が使われますが、この ”workaround” とは「選択肢、別の方法、マニュアルや説明書類には載っていない問題の解決策」であると、クランツはこの本の中で語っています。

     

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    “Failure Is Not An Option” にはジェット戦闘機のパイロットからNASAの管制官に転身し、多くの有人ミッションを経験したクランツの半生が書かれています。ジョン・グレンのフレンドシップ7 の帰還の際に緊迫した状況があったことをここここに書きましたが、この本で、クランツはそのとき地上でどのような動きがあったかをくわしく書き、フレンドシップ7のミッションは、ミッション・コントロールにとって大きな転換点になったと書いています。


    アポロ13号:ヒューストン、問題が発生した

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      Apollo 13Houston, we’ve had a problem

       

      今から48年前の1970411日、フロリダのケネディ宇宙センターから、アポロ13号が打ち上げられました。アメリカは前年の19697月に、アポロ11号による人類初の月着陸を成功させていました。次の12号も196912月に月着陸を成功させており、13号が打ち上げられたときには、すでに人々は月着陸に以前ほどの関心を示すことはなく、新聞の見出しも大きな扱いではなくなっていました。それだけに、ジェームズ・ラベル船長の ”Houston, we’ve had a problem” ではじまる危機的状況は、大きな衝撃でした。

       

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      上の画像は、事故発生後のヒューストンのミッション・コントロール・センター内の様子です。新聞やテレビもアポロ13号の事故を一斉に報道し、世界中の人々がかたずを飲んで地球への帰還を見守りました。

       

      アポロ13号の事故の原因は、液体酸素タンクの爆発でした。この液体酸素タンクはアポロ司令船・機械船(CSM)のプライム・コントラクターであるノースアメリカン・ロックウェル社の下請けのビーチエアクラフト社が製造したものです。液体酸素タンクにはサーモスタット付きのヒーター、攪拌ファン、温度計などが内蔵されています。タンクは2基が1セットになって液体酸素タンク棚に置かれ、機械船(SM)のベイ4という部分に設置されます。

       

      アポロ13号で爆発事故を起こした液体酸素タンク2(シリアル番号10024XTA0008)は、ビーチエアクラフト社で検査後、19675月にロックウェル社に出荷されました。10024XTA0008はもう1つの液体酸素タンク10024XTA0009と一緒に、19686月、アポロ10号の機械船SM 106に取り付けられました。しかし、その後の検査で不具合が発見されたため、SM106の液体酸素タンク棚は改修のために取り外されることになりました。ところがその際に、タンクの一部が変形してしまったのです。ただし、この変形は深刻なものとは考えられず、196811月、問題のタンク棚はアポロ13号の機械船SM109に取り付けられ、19696月にケネディ宇宙センターに運ばれました。

       

      SM109に取り付けられた液体酸素タンクには、もう1つ問題がありました。ヒーターについているサーモスタットは当初、28ボルトで作動するものが使われていましたが、その後、設計変更が行われ、65ボルトで作動させることになりました。ロックウェル社はビーチエアクラフト社に65ボルト用のサーモスタットに交換するよう指示していましたが、交換は行われていなかったのです。

       

      ケネディ宇宙センターでは1970316日に、アポロ13号のカウントダウン・デモンストレーション・テスト(CDDT)がはじまりました。このテストはタンクに実際に液体酸素を充填して行います。テスト終了後、液体酸素タンク2から液体酸素を抜く際に問題が発生しました。タンク内のパイプが変形していたため、液体酸素を十分に抜くことができなかったのです。そこで、タンク内のヒーターで液体酸素を暖め、気化させて抜くという方法がとられることになりました。

       

      サーモスタットは、タンク内の温度が80F27C)になると、ヒーターに流れる電流を遮断し、それ以上温度が上がらないようにするはずでした。ところが、28ボルト用のサーモスタットは65ボルトの電圧では作動しませんでした。このため、タンク内の温度は上昇を続け、作業中に1000F538C)に達したとみられています。その結果、電線を被覆していたテフロンがダメージを受け、電線の一部がむき出しの状態になってしまいました。

       

      タンク内がこうした状態になっていることは、当時、誰も気づきませんでした。アポロ13号の打ち上げ予定日は目前に迫っており、酸素タンク棚の交換は不可能でした。そこで、そのまま打ち上げの準備が進められ、411日、アポロ13号は発射台を離れました。

       

      地球から32kmも離れ、月に接近しつつあったアポロ13号から、「ヒューストン、問題が発生した」というラベル船長の通信が送られてきたのは、打ち上げから55時間55分が経過したときのことでした。このとき、以下のようなことが起こっていたことが、事故調査委員会で明らかになっています。

       

      打ち上げ後55時間5230秒、液体水素タンク1の圧力が低下しました。そこでヒューストンのミッション・コントロールは、このタンクのファンとヒーターのスイッチを入れるように指示しました。司令船パイロットのジョン・スワイガートはこの指示を確認し、スイッチを入れましたが、55時間5320秒、電流は液体酸素タンク2のファンをまわすモーターに流れたのです。この瞬間、むき出しの電線がショートして火花が散りました。液体酸素の急激な燃焼がはじまりましたが、この燃焼はテフロンが燃えることでさらに加速されたとみられます。

       

      55時間5336秒、液体酸素タンク2内の圧力が上昇しはじめました。55時間5431秒、液体酸素タンク2内の温度も急激に上昇しはじめました。55時間5445秒、液体酸素タンク2内の圧力は1008psia(約70気圧)に達しました。これらの現象は、液体酸素タンク2内で燃焼が進み、タンク内の温度と圧力が急激に上昇したことを示すものです。

       

      55時間5453.182秒、XYおよびZ軸方向の異常な加速が生じました。55時間5453.555秒から1.8秒間、アポロ13号からのテレメトリー・データが失われました。55時間5456秒、液体酸素タンク2の圧力を示す目盛はゼロを示しました。宇宙船の異常な加速とその後のデータの喪失は、タンクの爆発によるものです。ラベル船長たちが爆発音を聞き、異常事態に気づいたのも、このときでした。爆発は機械船のベイ4の外側のパネルを吹き飛ばし、液体酸素タンク1にも損傷を与えるほど激しいものでした。

       

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      爆発が起こったとき、スワイガートは自分の座席で計器盤を見ていましたが、ラベル船長は司令船の下部収納庫でテレビカメラをしまう作業をしていました。月着陸船パイロットのフレッド・ヘイズは月着陸船から司令船に戻るところでした。液体酸素タンク2の酸素は一瞬にして失われ、液体酸素タンク1の圧力もどんどん低下していました。機械船の酸素が失われるということは、生命維持および燃料電池による電力供給が不可能になることを意味します。こうして、地球帰還まで司令船の機能を停止させ、月着陸船を救命艇として使うことになりました。

       

      月をまわって地球に帰還する自由帰還軌道にアポロ13号を入れるための最初の軌道修正MCC-4Midcourse Correction No.4)は、61時間30分に行われました。アポロ13号が月をまわった後、アポロ13号の地球帰還を2時間早めて太平洋に着水させるための噴射PC+2hr79時間28分に行われました。105時間18分には軌道修正MCC-5が行われました。これらの軌道変更には月着陸船の降下用エンジンが用いられました。137時間40分、大気圏再突入のために最後の精密軌道修正MCC-7が月着陸船の姿勢制御エンジンを用いて行われました。

       

      司令船に戻ったクルーはまず138時間2分に機械船を切り離して破損の状態を撮影し、次に141時間30分に月着陸船を切り離して、142時間41分に大気圏に再突入しました。こうしてアポロ13号は142時間5441秒(417日午後1741EST)に無事、太平洋に着水したのです。

       

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      大気圏に再突入したアポロ宇宙船が、雲の合間からパラシュートで降りてくるシーンをテレビで見たときの強烈な印象を、私は今でも覚えています。

       


      天宮1号の大気圏再突入は4月1日か2日

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        Tiangong-1 will Reenter the Earth’s Atmosphere around April 1

         

        天宮1号の高度が低くなり、まもなく大気圏に再突入する見通しです。ESAなど複数の機関の予測では、日本の時間帯で41日か2日の可能性が非常に高くなっています。

         

        ESAによる330日現在の天宮1号の高度と再突入の予測は下の通りです。

         

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        天宮1号は約90分で地球を1周しています。どの周回で再突入するかまではまだ予測できません。したがって、地球のどこに破片が落下することになるかは分かりません。落下する可能性のある領域やそのリスク等については、ここをご覧ください。

         


        長征5号の打ち上げ再開は11月

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          China’s Long March 5 Rocket will Return to Flight in November

           

          20177月に2号機の打ち上げに失敗した長征5号ロケットの打ち上げ再開は11月になる模様です。長征5号は地球低軌道に25t、静止トランスファー軌道に14tの打ち上げ能力をもつ大型ロケットで、201610月に初打ち上げに成功しました。静止軌道への大型衛星や月・火星探査機の打ち上げ、中国の宇宙ステーション建設などに使われるロケットです。

           

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          長征52号機の失敗の原因は詳しくは発表されていませんが、第1段のYF-22 エンジンに何らかの不具合が生じたためとみられます。

           

          長征52号機は20172日午後723分(北京時間)に海南島の文昌衛星発射センターから打ち上げられました。打ち上げから間もなくして不具合が発生しました。第1段の2基のYF-22エンジンのうち1基が不調で、定格の半分以下の出力しか出なかったようです。このため、第1段の燃焼時間を延長する措置が取られましたが、さらに第1の分離の際、第2段エンジンがすぐには点火しなかったとも伝えられています。こうした不具合のため、ロケットは衛星を軌道投入するだけの速度に達することができず、ロケットとペイロードの実践18号はフィリピン海に落下しました。

           

          打ち上げ時の映像を検証してみると、次のような点が明らかになります。

           

          下は打ち上げから743秒後のミッション・コントロール・センターの様子です。ロケットは第1段が切り離され、第2段エンジンが燃焼している状態です。

           

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          一部を拡大したのが下の画像です。

           

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          手前の白髪の人物は長征5号のチーフデザイナー、竜楽豪氏です。後姿ではあるものの、事態が深刻であることが見て取れます。スクリーンの左上に表示されている曲線のうち、一番太い黄色の線はロケットの速度を示しています。ロケットの速度は計画されたライン(細い白い線)から明らかに外れており、速度が低下しているのがわかります。

           

          下の画像は打ち上げから946秒後のミッション・コントロール・センターの様子です。この時点ではすでに第2段の第1回目の燃焼は終了しています。長征5号は第2段エンジンを2回燃焼させてペイロードを静止トランスファー軌道に投入します。

           

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          スクリーンの右上の表示を拡大したのが下の画像です。

           

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          これを見ると、第1の分離が予定では打ち上げから466秒後であったのが、実際は576秒であったことがわかります。第1段エンジンの燃焼は予定より110秒も延長されたようです。また、第2段の第1回目の燃焼終了は予定が打ち上げ後750秒であったものが、実際は770秒であったと表示されています。映像を見ていると770秒ではなく789秒でした。いずれにしても第2段エンジンの燃焼時間は予定より短かったことを示しています。

           

          このようなことからすると、第1段エンジンおよび第2段エンジン両方の燃焼に問題があった可能性もあります。第1段のエンジンは燃料が液体水素、酸化剤が液体酸素のYF-77エンジンで、長征5号のために開発されました。201610月の初打ち上げの際には、打ち上げ直前にこのエンジンの冷却系にトラブルが発生しました(解決して打ち上げは行われました)。第2段エンジンは燃料が液体水素、酸化剤が液体酸素のYF-75Dエンジンです。YF-75D は長征3号の第3段に使われているYF-75の改良型で、推力がアップし、複数回の着火が可能になっています。

           

          YF-77エンジンになぜ不具合が生じたかの原因は究明されたとみられ、今年2月には燃焼試験が行われました。11月の打ち上げで、長征5号は実践20号を打ち上げます。実践20号は実践18号の代替機で、中国の新世代衛星バスDFH-5を使ったハイスループット通信試験衛星です。300Gbpsの通信が可能で、電気推進を採用、レーザー光通信などの実験も行われる予定です。

           

          長征53号機の11月の打ち上げが成功すれば、2019年には月物質のサンプルリターンを目指す嫦娥5号の打ち上げが4号機で行われるはずです。長征55号機の打ち上げは嫦娥6号の予定です。嫦娥6号は2回目のサンプルリターンを目指します。中国はさらに長征5号で火星探査機の打ち上げも計画していますが、予定されている202011月〜12月に間に合うかどうか微妙です。

           

          長征5号は2段式で、大型衛星の静止軌道への投入や月惑星探査機の打ち上げに用いられます。一方、低軌道への重量物打ち上げに用いられるのが、1段式の長征5B です。下の画像の左側が長征5号(CZ-5)、右側が長征5BCZ-5B)です。

           

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          長征5B はまだ打ち上げられたことがなく、最初の試験打ち上げが2018年に行われることになっていました。しかし、この予定は2019年にずれこむため、中国が建設を計画している宇宙ステーションの最初のモジュール(コアモジュール天和)の打ち上げは2020年になるとみられます。


          巨大津波は予測できたか?

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            福島第一原発に関し、国と東電に損害賠償を求めていた集団訴訟の判決が京都地裁でありました。「津波を予見できたのに対策を怠った」として、賠償を命じるものでした。報道によると、判決は政府が2002年に発表した「長期評価」で津波地震が起こり得ると指摘した点を重視したとのことです。

             

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            私はちょうど、東日本大震災から7年目の節目で当時の地震学の状況を振り返り、「長期評価」に関してここここここここに詳しく書いたところでした。

             

            これを読んでいただければお分かりになると思いますが、当時国や東電がマグニチュード9の地震や、それによって引き起こされる大津波を予見することは不可能でした。なぜなら、地震学者自身がそれを予測できなかったからです。東電は、既往の津波をもとに当時定められていた土木学会の「原子力発電所の津波評価技術」に基づいて津波対策を行っており、基準で定められた津波の高さをさらにかさ上げした防潮堤を設置していました。

             

            土木学会は2011年当時、新しい津波評価技術の検討に入ろうとしていたところでした。したがって、東電がそれに先駆けて巨大津波を予見し、対策を取ることはできない状況でした。

             

            裁判官は判決にあたって地震や津波に関していろいろと勉強したのだと思いますが、限界があります。海外の文献まで含めて当時の地震学の状況を把握し、「長期評価」自体を客観的に評価することはできないでしょう。阿蘇山が噴火した際の火砕流が海を越えて伊方原発にまで達するという昨年の広島高裁の判断の際にも感じたのですが、こうした専門的内容を扱う裁判の方法は今のままでよいのだろうかと考えてしまいます。


            東日本大震災:地震学者の責任(4)

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              これまで書いてきたように、日本の地震学者は3000億円以上を使っても地震予知を行うことができず、マグニチュード9の巨大地震を想定できず、貞観地震と同じ規模の巨大津波が襲来することを社会に警告できず、東北地方が大津波に襲われる確率は今後10年以内に2%という予測を2002年に行って、2011311日の東日本大震災を迎えてしまいました。

               

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              島崎氏も述べているように、貞観地震に関しては201123月に地震調査会で審議し、4月に公表の予定でした。貞観地震クラスの巨大津波の可能性について、ようやく地震学者の間でコンセンサスが得られ、国の地震対策・津波対策に反映されるというプロセスがはじまろうとしていた矢先に、東北地方太平洋沖地震が起きてしまったわけです。間に合わなくて残念だったという考えもありますが、貞観地震は江戸時代からよく知られていたわけですから、この地震にちゃんと向き合ってこなかった地震学者の怠慢と私は考えています。

               

              地方自治体や民間の防災対策は、国が定めた安全基準や設計基準などにしたがって実施されます。したがって、たとえば東京電力が2011年以前の段階で、科学的評価が不十分なマグニチュード9の地震を想定し、有効な対策を取ることは事実上不可能でした。20111月時点で、福島原発の位置で震度6強以上の揺れになる地震が発生する確率を、地震学者は30年間で0%としていました。2011512日の記者会見で、この件に関する質問があり、島崎氏は次のように答えています。

               

              「地震学者は当時、福島県や房総沖では、太平洋プレートは地震を起こさずにゆっくり動いてユーラシアプレートの下に沈みこんでいると考えていた。福島沖では過去400年間のうち、1938年にだけマグニチュード7前後の地震が3回起きた。それ以外の400年間、マグニチュード7を超える地震は1回も起きていなかった。これをわれわれは、福島県沖ではプレートがするするともぐり込んでおり、ときどきひっかかって地震を起こすと解釈した。それが1938年の3回の地震である。400年間に1回しか起きないわけであるから、30年間の発生確率を計算するとほとんど0%という非常に低い数字になってしまった。ところは、実際はその解釈とはまるっきり反対に、プレートは400年間がっちりとくっついており、エネルギーがたまって、それが今回の地震になった。当時の考えは誤りであった。発生確率0%というのは非常に基本的な誤りの結果であった」

               

              このように、島崎氏は地震学者が福島第一原発を襲う大地震や巨大津波を予測できなかったことを認めました。ところがその後、島崎氏だけでなく、他の地震学者も「東京電力は巨大津波を予測できた」という主張を繰り広げることになりました。

               

              たとえば、津波研究が専門で「長期評価」にも参加した元東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣氏は、国と東電に損害賠償を求める裁判で原告側証人として出廷し、「事故の9年前には予測が可能であった。事前の対策は実施できた」と述べています。巨大津波に乗り越えられてしまった東北沿岸の防潮堤の中には、都司氏がアドバイスしたり、設計に参加したものがあったはずです。もしも予測できていたのなら、まずそれらの防潮堤の改修を提案すべきでした。

               

              東日本大震災から7年の節目に、これまで書いてきたような経緯を振り返ると、日本の多くの地震学者は自らの社会的責任を果たすことも、未曾有の大震災に真摯に向き合うこともなかったと、私は考えています。



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