映画『ファースト・マン』:最後に残ったのは失望だけ

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    Damien Chazelle’s “First Man”Only Disappointment Remained

     

    映画『ファースト・マン』を観てきました。「これは『ライトスタッフ』でも『アポロ13』でもない」というアメリカでの批評を聞いてはいましたが、あまりの失望感に言葉もなく劇場を後にしました。ジェームズ・R・ハンセンによるニール・アームストロングの素晴らしい伝記を映画化するのであれば、誰か他の監督につくってほしかったと思わざるを得ません。

     

    場面の大半がアームストロングの家。当時のNASAのセットはほとんどなし。そして最後の月面シーンのチープさ。数え上げればきりがないので、やめますが、1番の問題は、この作品で描かれているアームストロングが、ハンセンが伝えたかったアームストロングではないということです。アームストロングは最高のプロフェッショナルでしたが、同時にいつも穏やかで人々に温かい宇宙飛行士でした。

     

    原作には、月への出発前のアームストロングに妻のジャネットがくってかかることなどは書かれていません。アームストロングが2歳で死んだ娘のカレンを月面で思い出して涙を流すことも書かれていません。この作品で描かれるオルドリンも実際とは異なり、おそらくオルドリン本人にとっていい気持にはならないでしょう。

     

    もちろん『ファースト・マン』はドキュメンタリーではありませんから、原作の映画化権を取得した人たちには脚色の自由があります。しかし、この作品はアポロ計画には興味のなかった人たちがつくった映画という感が否めません。また悪意ではないにしても、実際に起こったことがネガティブなフィルターをかけられたり(例えばアポロ8号)、一面的に描かれたり(例えばジェミニ8号)しており、さらに実際にはありえないシーン(例えばカレンのブレスレット)が付け加えられています。アポロ計画やニール・アームストロングに関係のあった人々、あるいはよく知る人々が誰も喜ばない映画になってしまいました。

     

    『ライトスタッフ』や『アポロ13』を観て、NASAの宇宙計画に興味を持った人は多いと思います。しかし『ファースト・マン』についていえば、多くの人々が人類の偉業であるアポロ計画の意義やアームストロングの魅力的な人間像を理解する上でマイナスにしかならないことを、私は非常に残念に思います。


    2018年は観測史上4番目に暑い年だった

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      2018 were the Fourth Warmest since 1880

       

      NASAの発表によると、2018年は観測史上4番目に暑い年でした。

       

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      下のグラフは1880年以降の世界平均気温の推移です。赤い線がNASAのデータで、それ以外にNOAAや日本の気象庁、イギリスのハドレー・センターのデータなどが示されています。観測方法やデータ処理方法の違いなどのために多少数値の差はありますが、推移はまったく一致しています。

       

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      NASAによると、2018年の世界平均気温は、1951〜1980年の平均値に比べて0.83C高くなっているとのことです。


      ファースト・マン:Gミッション

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        FIRST MAN:G Mission

         

        ニール・アームストロングはなぜアポロ11号のコマンダー(船長)に選ばれ、初めて月面に足跡を残すことになったのでしょうか。

         

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        ジェームズ・R・ハンセンが書いたアームストロングの伝記”FIRST MAN”には、以下のような経緯が紹介されています。

         

        1967年1月27日に発生したアポロ1号の事故により、NASAはアポロ宇宙船の設計の大幅な見直しを迫られました。それにともない、アポロ飛行計画にも大きな変更がもたらされました。NASAが同年4月に発表した新たな計画は以下のようなものでした。

         

        死亡した3人の宇宙飛行士を悼み、アポロ1号を新たなミッション名に用いない。

        アポロ2号と3号はない。

        アポロ4号は無人でサターンロケットの試験を行う。

        それ以降はAからJのミッションがある。

        Aミッションは無人のアポロ4号と6号で、サターンロケットとアポロ司令船のテストを行う。

        Bミッションは無人のアポロ5号で、月着陸船のテストを行う。

        Cミッションはアポロ7号によるアポロ初の有人ミッションで、地球周回軌道でアポロ司令船と機械船をテストする。

        Dミッションはアポロ司令船・機械船と月着陸船を地球周回軌道でテストする。

        Eミッションはアポロ司令船・機械船と月着陸船を月周回軌道でテストする。

        Fミッションは月着陸のドレスリハーサル(本番そのままのリハーサル)である。

        Gミッションで月着陸を行う。

        Hミッションはより高度な機器を搭載した着陸ミッションである。

        Iミッションは月を周回してリモートセンシング観測を行うミッションで、月着陸は行わない。

        JミッションはHと同じだが、より長く月面にとどまる。

         

        宇宙飛行士室をひきいていたディーク・スレイトンは、アポロ7号のクルーとしてウォルター・シラー、ドン・エイゼル、ウォルター・カニンガムを指名しました。バックアップ・クルーはトム・スタッフォード、ジョン・ヤング、ジーン・サーナンでした。シラーらはもともとアポロ1号のバックアップでした。アポロ8号のクルーにはジム・マクディヴィット、デイブ・スコット、ラスティ・シュワイカートが指名されました。バックアップはピート・コンラッド、ディック・ゴードン、クリフトン・ウィリアムズでした。ウィリアムズはその後、飛行機事故で死亡し、アル・ビーンに代わりました。アポロ9号のクルーはフランク・ボーマン、マイケル・コリンズ、ビル・アンダースで、バックアップはアームストロング、ジム・ラヴェル、バズ・オルドリンでした。

         

        この時点でアポロ8号と9号はDミッションの飛行でした。9号のバックアップであるアームストロングがプライム・クルーに指名されるのは早くてアポロ11号でした。なぜなら、NASAではバックアップ・クルーが次のミッションのプライム・クルーに移行することはなかったからです。EミッションとFミッションは月に着陸せず、Gミッションで着陸を目指すことになるので、順番でいえば一番早くてアポロ12号が月着陸に最初に挑戦することになります。アームストロングが11号に指名されば、彼は月でのドレスリハーサルを行うことになます。

         

        しかし、この飛行計画は実際にはだいぶ変わってしまいました。1968年10月11日、アポロ7号が打ち上げられ、ミッションは成功しました。同年12月21日にアポロ8号が打ち上げられましたが、ミッションはDミッションではなく、人類初の月周回飛行を目指していました。実はこの時期、グラマン社が開発中の月着陸船は完成しておらず、Dミッションを行うことはできませんでした。また、当時月着陸競争を行っていたソ連が、有人月周回飛行を間もなく行うという情報がありました。このため、NASAは大きなリスクをとり、巨大なサターン5型ロケットにはじめて人間を載せるミッションで月周回を行うことを決断したのでした。アポロ8号はアポロ計画で最も危険なミッションでした。クルーはフランク・ボーマン、ジム・ラヴェル、ウィリアム・アンダースでした。

         

        この結果、Eミッションはスキップされ、アポロ9号でDミッションを行い、アポロ10号でFミッションを行うことになりました。アポロ11号がGミッションを行うことになったのです。アポロ8号打ち上げの日の午後、スレイトンはアームストロングを呼び、彼をアポロ11号のコマンダーに指名するつもりであることを伝え、さらに、アポロ8号、9号、10号の飛行がすべてうまくいけば、11号は月着陸を目指すことになると話しました。スレイトンはアームストロングが初めて月に立つ人間としての資質をもっていることを早くから見抜いていたのでしょう。

         

        スレイトンは11号のクルーとしてオルドリンとコリンズを考えていましたが、この時アームストロングに、月着陸船のパイロットはオルドリンではなくラヴェルではどうかと打診しました。一晩考えたアームストロングは、ラヴェルは次の飛行ではコマンダーになるべきと答えました。こうしてラヴェルは13号のコマンダーに指名されることになりました。

         

        アポロ8号帰還後の1969年1月4日、スレイトンは3人を集め、アポロ11号のクルーとして正式に指名しました。アポロ9号と10号のミッションも成功し、7月16日、アポロ11号は発射台を離れました。こうして、アームストロングは「ファースト・マン」になったのです。


        ファースト・マン:ザ・ワースト・ロス

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          FIRST MANThe Worst Loss

           

          はじめて月に降り立った宇宙飛行士ニール・アームストロングを描いた映画『ファースト・マン』がまもなく公開になります。原作はジェームズ・R・ハンセンが書いたアームストロングの伝記”FIRST MAN”です。

           

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          ハンセンはNASAのヒストリアンやアラバマ州オーバーン大学の教授として、アメリカの航空宇宙分野の歴史を研究した人物です。アームストロングは自らの伝記出版のオファーを断り続けていましたが、2002年、ハンセンの業績を認めて許可しました。”FIRST MAN”執筆のためにハンセンは125人にインタビューしました。その中にはアームストロング自身との50時間以上のインタビュー、最初の妻ジャネットとの12時間のインタビューが含まれます。

           

          当然のことですが、”FIRST MAN”の多くのページはアームストロングのNASAでの活動、特にアポロ11号の飛行に費やされています。しかしながら、ハンセンはアームストロングのきわめてパーソナルな出来事に関してもいくつか触れています。その1つは、娘カレンに関するもので、ハンセンは”The Worst Loss“として、これに1つの章を与えています。

           

          カレンは1962128日、脳腫瘍のために210か月で亡くなりました。カレンの発病から死までの時期は、アームストロングがNASAのテスト・パイロットとして数々の実験機の試験飛行をしていた時期にあたります。アームストロングはすぐれたテスト・パイロットでしたが、カレンの死の後、試験飛行で2度ほどミスをおかしています。誰にも語ることはありませんでしたが、アームストロングにとって非常につらい時期であったことを物語っています。

           

          この時期は同時に、アームストロングがNASAの宇宙飛行士第2期生の募集を知り、それに応募しようと考えはじめる時期に当たっています。アームストロングが宇宙飛行士になろうと考えたことと、カレンの死は関係していたのだろうかと、ハンセンは問いを投げかけています。彼の妹のジューンは、「それをきくことはできなかった」と語っています。しかし、「愛する娘の死は、彼のエネルギーをもっと前向きなものに集中させる原因になった」と彼女は考えています。

           

          カレンの死後、アームストロングはNASAの宇宙飛行士選抜に応募し、19629月、NASAはアームストロングら9人を宇宙飛行士2期生として発表しました。ジョン・グレンら宇宙飛行士第1期生の「オリジナル・セブン」に続く彼らは「ニュー・ナイン」とよばれました。

           

          NASAの宇宙飛行士はいくつかの私物を宇宙にもっていくことを許されています。月面に着陸した宇宙飛行士の中には、家族の写真を月にもって行ったり、月面に置いてきた人もいました。アームストロングはどうだったのでしょう。ハンセンの伝記によると、アームストロングはほとんど私物をもっていかなかったようです。当時の妻のジャネットによると、アームストロングはオリーブの枝をデザインしたピンを彼女のために月にもっていったが、二人の息子に何かを渡したことはなかったとのことです。

           

          アームストロングはカレンのために何かを月にもっていったのでしょうか。カレンの写真や形見の品を月面に置いてきたのでしょうか。ジューンは「そうであってほしい」といっています。しかし、アームストロングは何も語りませんでした。それは、将来宇宙飛行士が再び「静かの海」を訪れたときにわかるだろうと、ハンセンは書いています。


          ダークエネルギーの密度は時間とともに増加

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            Dark Energy Density Increasing with Time.

             

            クェーサーの観測データから、ダークエネルギーの密度が宇宙の歴史とともに増加しているという結果が得られたとのことです。ダークエネルギーというのは宇宙を膨張させているエネルギーですが、現代の科学ではその正体が何であるか分かっていません。

             

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            クェーサーは、非常に遠方にある活動銀河の中心核と考えられています。中心核には超巨大ブラックホールがあり、周囲の物質をのみ込んでいます。このとき紫外線が発生します。その一部は中心核周囲の高温ガスの電子と衝突し、紫外線のエネルギーをX線のエネルギーにまで高めます。この現象によってクェーサーからの紫外線の強さとX線の強さには相関が生じ、この相関からクェーサーまでの距離を知ることができるのです。

             

            イタリア、フローレンス大学のRisalitiとイギリスのダラム大学のLussoは、1598個のクェーサーについて、NASAのチャンドラX線宇宙望遠鏡とESAのX線観測衛星XMM-Newtonから得られたX線のデータ、および宇宙の詳細な地図をつくるSDSS(スローン・デジタル・スカイサーベイ)から得られた紫外線データを用い、それぞれのクェーサーまでの距離を求め、そこから宇宙初期の膨張率を求めて、ダークエネルギーがどのように作用しているかを調べたのです。

             

            遠い銀河にあるIa型超新星の明るさや銀河の赤方偏移の観測によって、今から90億年前から現在までの宇宙膨張の様子が明らかにされ、現在の宇宙は加速膨張していることが分かっています。この加速膨張や宇宙マイクロ波背景放射などの観測結果をよく再現し、現在標準的な宇宙モデルとなっているのが、ΛCDMモデルです。Λ(ラムダ)はアインシュタインの考えた宇宙項(宇宙定数)で、ダークエネルギーを意味します。CDMは冷たいダークマターのことです。私たちの宇宙は曲率がゼロで、ダークエネルギーであるΛと冷たいダークマターをもつと考えるモデルです。

             

            しかし、このΛCDMモデルにも問題が残されています。それは、ダークエネルギーの正体は宇宙項という一定の値ではないのではないか、ダークエネルギーは時間とともに変化するのではないかという問題です。もしもそうだとすると、ΛCDMモデルには修正が必要です。

             

            RisalitiとLussoの研究は、ΛCDMモデルが宇宙の初期においても正しいかどうかを調べるものでした。二人はきわめて遠方のクェーサーのデータを解析することにより、今から120億年も過去にまでさかのぼり、宇宙の膨張率を調べました。その結果、ダークエネルギーの密度が時間とともに増えていることを示唆する結果を得たのです。

             

            今回の結果はきわめて興味深いものですが、さらに検証が必要です。今後、より高い精度で宇宙膨張を観測し、時間とともに膨張速度がどのように変化しているのかを調べる必要があります。


            三島由紀夫:2つの謎

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              Mishima:Two Subjects to be Solved

               

              書店でみつけて思わず買ってしまった『三島由紀夫 ふたつの謎』(大澤真幸、集英社新書)。社会学者の立場からの『豊饒の海』の分析は非常に新鮮でした。

               

              1970年11月25日。この日、三島は雑誌『新潮』に連載していた『豊饒の海』第4巻『天人五衰』の最終回の原稿を、この日の日付を入れて出版社に渡しました。そして、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛官に「決起」を呼びかけ、それがかなわないと知ると割腹自殺を遂げたのです。大澤氏の問いかける謎とはこの日の2つの出来事に関することで、「『天人五衰』の結末はあれでよかったのか?」、そして「三島はなぜ割腹自殺したのか?」ということです。

               

              まず、『天人五衰』の結末について。三島は『豊饒の海』についての創作ノートを残しており、そこには第4巻の結末について、実際の『天人五衰』とは異なるアイデアが書かれています。大澤氏は、『天人五衰』を書き始めた時点で、三島は別の結末を考えており、それが途中で今の結末になってしまったのではないかとし、今の結末は「あまりにも破壊的な効果をもつ終わり」で、「この結末を認めてしまえば、全四巻から成る『豊饒の海』のそこまでの展開のすべてが、遡及的に、無意味なものとして否定されてしまう」と述べています。

               

              しかしながら、『豊饒の海』第1巻『春の雪』から第4巻『天人五衰』の月修寺での結末までを読み終え、もう1度、『春の雪』の結末を読み返してみれば、『天人五衰』の結末はこれしかなかったと考えざるを得ません。死に際した本多が解脱し、すべてが肯定されるような結末は、三島の文学としては成り立たなかったでしょう。第2巻『奔馬』、第3巻『暁の寺』には、本多が月修寺訪問を考え、今はその時ではないと思いとどまる場面があります。『天人五衰』の結末は、『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』を通じてその伏線が張られていたというべきでしょう。たとえ別の結末のアイデアがあったとしても、三島は『天人五衰』の連載を始めた早い段階で、すでに今の結末を考えていたと考えられます。最後の最後で「何もないところへ、自分は来てしまった」と本多が考え、それまでの全4巻で語られてきたことすべての意味が分からなくなってしまうところに、『豊饒の海』という作品の底知れない魅力があると私は考えています。

               

              実は、「『天人五衰』の結末はあれでよかったのか?」という問いは、三島由紀夫の研究者である井上隆史氏がすでに論考したところであり(『三島由紀夫 幻の遺作を読む』、光文社新書)、大澤氏の今回の著書は、同じ問いを大澤氏の学問的立場から検討したものといえます。井上氏も『三島由紀夫 幻の遺作を読む』で、今の結末は「『春の雪』以降展開してきた筋立てが解体することであり、作品の時空間が消滅してしまうことである」と述べています。井上氏は書かれることのなかったもう1つの『天人五衰』を、創作ノートをもとに構成し、考察を加えています。興味深いのは、井上氏がエピローグで、「やはり三島はその構想を破棄し、実際に発表された通りの『天人五衰』を書いてこそ、三島由紀夫なのだ」と述べていることです。

               

              『三島由紀夫 ふたつの謎』でもふれられていますが、三島が16歳の時に書いた事実上のデビュー作『花ざかりの森』の結末と『天人五衰』の結末が似ているという指摘が以前からなされています。実際、『花ざかりの森』の結末の「死に似た静謐」は、『天人五衰』の結末とまったく同じといってよいものです。さらにいえば、三島が20歳の時に書いた『岬にての物語』をこれに加えてもいいでしょう。この作品の結末で、若い二人が飛び降りた岬の先端で主人公が腹ばいになって見下ろした海の「無音の光景」も、『花ざかりの森』と『天人五衰』に共通しています。三島という作家は、最後に同じ光景に戻ってきたのです。これは『豊饒の海』で、本多が『春の雪』の結末の場所である月修寺に『天人五衰』で最後に戻ってきたことと対応しています。

               

              ちなみに『豊饒の海』というタイトルですが、これは月の海の名前です。三島自身が『春の雪』の後註で「月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatisの翻訳である」と書いています。「海」は三島文学にとって特別な存在でした。そして『豊饒の海』では「月」も特別な意味をもちます。三島が『豊饒の海』を書きはじめた頃には、Mare Foecunditatisはすでに「豊かの海」という平易な表記になっていましたが、戦前までは「豊饒の海」あるいは「豊饒海」などが使われていました。「海」と「月」をめぐる長編のタイトルを考えた時に、三島は古い月面図で見た「豊饒の海」という表記に興味を覚えたのでしょう。したがって、実際の豊かの海が水もない不毛な場所であるという事実は、三島にとってあまり意味をもたなかったと思います。三島は『春の雪』に登場する鎌倉の海を「豊饒の海」として書いています。それに対して『天人五衰』の冒頭で透が望遠鏡で眺める駿河湾は、俗にまみれ、悲劇性を失った海として書かれています。時代がそれだけ変わってしまったのです。

               

              さて、もう1つの謎、三島はなぜ割腹自殺したかです。井上氏は、『天人五衰』の実際の結末と書かれなかった結末は「虚無」と「救済」の闘いであったとし、虚無が勝ってしまったことが、三島の死に関係していると述べています。三島の割腹自殺に、三島自身がもっていたはかりしれないニヒリズムが作用していたのは間違いありません。さらに、これについて考えるには、『仮面の告白』を読む必要があります。この作品は、タイトルからして三島という作家の二面性を表現しています。この作品に書かれていることは、仮面をつけることではじめて可能になった作者自身の真の告白なのか? それとも仮面による完全な虚構なのか? 何が真実かは作者にしか分からないわけですが、この作品を読んで私たちが気づくことが1つあります。三島が絵画『聖セバスチャンの殉教』に惹かれ、自分も腹に矢を射られた聖セバスチャンになりたいと考えていたことです。

               

              三島は聖と俗というか、美の究極を求める純粋な文学者であると同時に、俗世間に自らのもう1つの面を投影し、マスコミに取り上げられることを好んだ作家でもありました。三島の人生で前者の仕上げが『豊饒の海』であり、後者の仕上げがボディビルで鍛えた身体で切腹すること、すなわち聖セバスチャンとして死ぬことでした。三島は割腹自殺する数年前に『憂国』や映画『憂国』で切腹のシミュレーションを行っていましたし、雑誌『血と薔薇』のグラビアでは、自ら聖セバスチャンとなった姿を篠山紀信に撮らせていました。

               

              三島の割腹自殺の日、私はまだ学生で、荻窪あたりでアルバイトをしていた記憶がありますが、不思議なことにニュースを知っても驚きはなく、三島の魂もこれで鎮まるのではないかと考えたのをおぼえています。

               

              三島にとって2つの出来事は同じ日に起こらなくてはならなかったのでしょう。とすると、三島が市ヶ谷の自衛隊を訪問する日程が先に決まり、それに合わせて『天人五衰』を終わらせるという段取りになります。三島は『天人五衰』の最終回の原稿を1970年の夏には書いており、その原稿の入った茶封筒をドナルド・キーンに見せたことは、よく知られています。おそらく三島は、連載の途中から、先に結末を書き終え、自衛隊訪問の日程に合わせてその間を埋めるという書き方をとったのでしょう。さらにいえば、三島は、早く結末を書いてしまいたいという誘惑を抑えることができなかったのかもしれません。『天人五衰』を読み進んでいくと、「九月三日の事件」あたりから、物語の展開が急になり、最終回に向かって先を急ぐ感があります。『天人五衰』の完結はもともと1971年後半とされていました。それが自衛隊での日程に合わせて早まってしまったということなのでしょう。

               

              久しく思いめぐらすことのなかった三島の作品について、あれこれ考えてしまうほど、大澤氏の本は知的刺激に満ちていました。

               



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