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NASA の新しいXプレーン
NASA’s LBFD X-plane

これはNASA が開発を進めている新しいXプレーンです。低ソニックブームの実現に必要な技術の飛行実証、すなわちLow Boom Flight Demonstration (LBFD) のための試験機です。

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NASA は静粛超音速旅客機QueSST (Quiet Supersonic Transport) の研究を進めています。コンコルドはソニックブーム(音速を超えた時に発生する衝撃波で、地上に雷のような音がとどろく)が原因で、陸地上空を超音速で飛行することができませんでした。今後の超音速旅客機にはソニックブーム対策が不可欠です。NASA はこれまでに研究してきた低ソニックブーム技術をこのXプレーンで飛行実証したいと考えています。
市場問題PT報告書:築地ブランドという幻想
市場問題プロジェクトチームの第1次報告書(案)は「築地再整備ありき」で書かれていますが、報告書に書かれている事実を客観的に眺め、豊洲移転と築地再整備を比較してみると、現在の築地市場に求められていることはすべて豊洲新市場で実現できることが分かります。

また、築地再整備は報告書のようにはいかず、多くの問題に直面することが明らかです。工期は伸びる可能性があり、アスベストを含む現在の建物を安全に解体するには市場を休業させる必要があります。報告書には書かれていない土壌汚染調査およびその対策のためにさらに工期が延びます。全体の費用ももっとかかるはずです。また、営業しながら工事を進めるのは非常に困難です。なにしろこの問題が、かつての築地再整備計画を挫折させたのですから。

実は市場問題PTの小島座長もこれらに気付いており、どうしても築地でなくてはならない理由として、最終的には「築地ブランド」に頼らざるを得なくなっています。しかし、報告書が述べている意味での築地ブランドは幻想にすぎません。

まず、報告書では「世界の生鮮市場ベスト10」で築地市場が第2位になっていると述べています。確かに築地市場は世界によく知られていますが、それはあくまで「観光スポット」として有名なだけです。床にマグロを並べてセリをするという昔ながらの風物詩を体験できる場所として有名なのです。築地市場の鮮魚が欧米で高い評価を得ているという事実はありません。なぜなら、築地市場の魚を輸出することができないからです。築地市場の魚は一部アメリカには輸出されているものの、国際標準であるHACCP(ハサップ)対応がなされていないため、EU諸国に輸出することはできません。新鮮で質の高い魚を売る市場として評価されているわけではないのです。実はこの点こそが、一刻も早く豊洲に移転して、世界に飛躍するために関係者が一丸となって努力しなければいけないことなのですが。

報告書では「築地ブランドの担い手は仲卸業者」であり、「仲卸を中心とした食材目利き(品質値段設定)の技」がブランド力を維持してきたと述べています。しかし、これは間違いです。築地ブランドは、各地から新鮮な魚を届けてくれる漁師さん、漁港、流通業者なしには成り立ちませんし、その魚を評価している消費者が一緒になって築地ブランドをつくりあげているのです。報告書はこうした面に対する配慮が欠けています。

現実問題として、鮮魚市場としての築地ブランドが意味を持つのは、これまで付き合いのある業界内にとどまるのではないでしょうか。日本人の多くは築地経由でなければ魚を買わないというわけではなく、通販サイトには築地を経由しない鮮魚があふれています。羽田空港の近くには、各地の漁港から飛行機で送られてきた魚を、市場を経由しないで流通させる業者まで出現しています。

鮮魚市場のブランドは関係者が一丸となってつくり上げていくものです。そのための場所が今、豊洲に出来上がっています。「築地」という地名に固執するのであれば、築地市場は鮮魚市場ではなく、観光スポットとして生きていく道を選択するしかないでしょう。
豊洲市場専門家会議第6回会議:科学は守られた
前回、豊洲移転反対派の妨害で休会になってしまった豊洲市場における土壌汚染対策等に関する専門家会議第6回会議が6月11日に再開され、今後の安全対策に関してまとめた報告書ができあがりました。これによって、豊洲市場の安全性は改めて明らかになり、将来の安全性確保に関しても科学的知見に基づいた提言がなされたことになります。

今回も人民裁判のような長時間の質疑応答がありましたが、これに最後まで誠実に対応した平田健正座長をはじめ、駒井武先生、内山巖雄先生、そして事務局の中島誠氏に敬意を表したいと思います。

専門家会議は移転反対派のプレッシャーの中で開催されてきました。会議後の質疑応答では毎回、プロの活動家と思われる人を含む反対派から執拗な攻撃を受けました。また小池知事周辺からは、豊洲のマイナスイメージをつくるための情報リークが、会議前日に毎回のように行われました。例えば2016年10月15日の第1回会議の前日には水銀濃度に関する情報が、会議で報告される前日にメディアに流れました。2017年1月14日の第4回会議の前日には、小池知事自身がメディアで「かなり厳しい数字が出る」と発表していました。

こうしたプレッシャーを平田座長が感じなかったはずはありません。豊洲問題では科学を無視した議論がまかり通っていますが、専門家会議は一貫して科学データにもとづいた議論を行い、それを報告書にまとめました。平田座長はずいぶん苦労されたと思いますが、プレッシャーに屈することなく、専門家会議が「科学を守った」ことは高く評価されるべきことだと思います。
小池都知事が豊洲市場をつぶしたい理由
市場問題プロジェクトチームがまとめた第1次報告書(案)は、予想通り「豊洲市場つぶし」「築地再整備ありき」の内容で、小池都知事の意向を反映したものといえます。小池氏が豊洲移転の判断をせず、ここまで問題を引き延ばしてきたのは、ひとえにこの報告書を待っていたためです。豊洲市場は科学的に安全であり、舛添都知事時代に安全宣言がなされているにも関わらず、小池氏はなぜ豊洲移転の判断をしないのか。なぜ市場に再び大混乱をもたらす築地再整備を選ぼうとしているのか。合理性にかけ、不可解と感じる方は多いでしょう。小池氏は豊洲市場に対して憎しみに似た感情さえもっているように思えます。

しかしながら小池氏のこうした態度は、心理学を少しでも勉強した者には、きわめて簡単に説明できます。これは「プライドを傷つけられた人が復讐を果たそうとする際にとる行動」の典型的なパターンです。ここでいう「プライドを傷つけられた」とは、経済的あるいは物理的ではない、心に与えられた刺激に対するネガティブな反応のことで、他にもいろいろなケースを想定できます。以下のようなストーリーを考えてみてください。

主人公はある相手からプライドを深く傷つけられます。彼の心の中に相手に対する憎しみの感情が生じますが、相手は自分より強い立場にあるため、その感情はすぐには行動に表れません。しかし時が経って力関係が逆転し、自分は相手に対して復讐できる力を持ったと気がついた時、彼の心の奥底に秘められていた憎悪は突如怪物のように膨れ上がります。ここでいう力関係の逆転をもたらす要因としては、本人の成長や社会的成功、権力の入手、相手の老化や社会的地位の喪失などがあります。ここで大事なことは、相手が本当に彼を傷つけたかどうかは問題でないということです。多くの場合、こうした感情は一方的に生じることが指摘されています。憎悪の感情は通常社会生活の中で緩和されていくことが多いのですが、一方的な思い込みを内部に押し込めてしまった場合、こうした緩和過程は働かなくなります。
 今や、彼の心はあまりに大きな憎悪に支配されているため、論理的思考は成り立たなくなります。復讐がどんなに非合理なものであっても、もはや誰も止められないのです。このとき、重要なポイントがいくつかあります。第1に、彼は復讐を公の場で行おうとします。プライドを傷つけた対価を一般大衆の目の前で支払わせ、彼自身の誇りを回復しようとするのです。第2に、復讐の対象は相手自身でなく、相手が最も愛するものに向けられることがあります。第3は、周到性です。大きな不合理に駆り立てられるほど、彼はそれをエネルギーにして冷静・冷酷になり、復讐を成功させるために周到な準備をします。さらにもう1つ重要な点は、自らの行動によって第三者が不利益や損害を被ったとしても、彼はそのことに対して罪悪感をもつことがないことです。昔、自分の心に傷を与えた相手にこそ責任があると考えるからです。

この心理プロセスは古来あまたの文学や戯曲のテーマとなり、また現実のエピソードを生み出してきました。ここには、私たちが普遍的にもつ心理がいくつも組み合わされているからです。私には小池氏の心の中を推し量ることはできませんし、このストーリーをそのまま当てはめる気はありませんが、豊洲移転に関して多くの共通点があることはおわかりになるでしょう。もしかしたら、小池氏には過去のどこかの時点で、石原慎太郎氏に対する複雑な心情が生まれたのではないでしょうか。そうでなければ、私には小池氏の石原氏に対する慇懃無礼なコメント、人民裁判のような百条委員会での石原氏の証人喚問、石原氏と東京都に対する住民訴訟において同氏の個人責任を追及するという方針への変更などについて理解することができません。

小池氏にとって豊洲市場は石原氏そのものなのではないでしょうか。それは小池劇場のための舞台でさえなく、ただ否定するためにだけ存在しているように見えます。小池氏はいずれこの問題に対する自身の立場を表明するでしょう。その時、もしも小池氏が豊洲移転をやめて築地再整備を選んだとすれば、私たちは公共的利益という観点で判断できず、私怨を優先する「小池ファースト」の東京都知事をもつことになるのではないかと心配です。もしも小池氏が豊洲移転を選択すれば、小池氏は個人の感情を抑える理性をかろうじてもっていたといえかもしれません。
NASA の2017年宇宙飛行士候補者
2017 NASA astronaut candidates

NASA の新しい宇宙飛行士候補者が発表されました。前回の2013年宇宙飛行士クラスは8名でしたが、今回、1万8300名の応募者の中から選抜されたのは12名でした。2000年以降のNASA宇宙飛行士クラスの中で最大の人数です。国際宇宙ステーション(ISS )以遠の宇宙空間への有人探査を推し進めようとするNASA の意気込みが感じられます。

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ジョンソン宇宙センターでの発表式にはマイク・ペンス副大統領も参加し、「12名はわれわれの国家を偉大な発見の高みに導くだろう。第45代アメリカ大統領ドナルド・トランプ氏も私も皆さんを誇りに思う」と語りました。オバマ前大統領は有人宇宙探査に消極的でしたが、トランプ政権は、NASA の有人宇宙探査活動はアメリカが偉大な国家であるために不可欠と考えています。

候補者は今後2年間の訓練に入ります。ISS での活動の訓練、アメリカの商業宇宙船での飛行訓練、さらにオライオン宇宙船とSLSロケットによる深宇宙探査のための訓練が含まれます。NASA長官代行のロバート・ライトフッドは「国際宇宙ステーションでの新たな研究を行うとともに、今よりももっと遠い宇宙へ行くための準備もする。彼らはとても忙しくなるだろう」と語りました。

2017年選抜の宇宙飛行士候補者は以下の通りです。

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前列左から
ジーナ・カードマン(29歳)。ノース・カロライナ出身の生物学者。土壌や深海底中の微生物が専門。
ジャスミン・モベリ(33歳)。海兵隊少佐。アリゾナ州にある海兵隊ユマ海兵航空基地の試験評価飛行隊に所属している。
ジョニー・キム(33歳)。海軍中佐。マサチューセッツ総合病院に緊急医療部の医師として勤務。SEAL での経験あり。
ラジ・チャリ(39歳)。空軍中佐。エドワード空軍基地では第461航空試験飛行隊のコマンダーとしてF-35 の飛行試験を行った。
ロラール・オハラ(34歳)。ウッズホール海洋研究所の研究者。ゴダード宇宙飛行センターやジェット推進研究所で学んだ経験もある。
後列左から
フランク・ルビオ(41歳)。陸軍少佐。医務官として勤務。作戦時の600時間を含む1100時間以上のヘリコプター搭乗経験がある。
マシュー・ドミニク(35歳)。海軍中佐。選抜結果が発表された時、ドミニクは第115戦闘攻撃飛行隊の指揮官として空母ロナルド・レーガンに乗艦していた。
ワレン・ホバーグ(31歳)。MIT航空宇宙部門のアシスタント・プロフェッサー。
ロブ・クリン(33歳)。スペースX社で打ち上げ技術部門のリーダーとして勤務していた。南極氷河の掘削経験をもつ。
カイラ・バロン(29歳)。海軍士官学校に勤務。原子力潜水艦作戦チームに女性士官として初めて参加した1人。
ボブ・ハインズ(42歳)。空軍出身。ジョンソン宇宙センターでリサーチ・パイロットとして勤務していた。
ジェシカ・ワトキンズ(29歳)。専門は地質学。エイムズ研究センター、ジェット推進研究所で研究後、現在はカリフォルニア工科大学で火星ローバー、キュリオシティの探査プログラムに参加している。
ハンガーS:NASA 有人宇宙飛行の揺籃
Hangar S:Cradle of NASA’s human spaceflight

前の話の続きです。ジョン・F・ケネディとNASA にまつわる写真の中で、私が好きなのは下の写真です。1962年2月20日、ジョン・グレンはマーキュリー6号に搭乗し、アメリカ初の軌道周回飛行を成功させました。2月23日、ケネディ大統領は当時ケープ・カナヴェラル空軍基地にあったNASA の施設を訪れ、グレンにNASA殊勲賞を授与しました。これはその時の写真です。ケネディの右がグレン、その隣が妻のアニー、そして娘のリンと息子のデイビッドです。デイビッドの右はNASA長官のジェームズ・ウェッブ、ケネディの左にリンドン・ジョンソン副大統領がいます。

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背景の ”MANNED SPACECRAFT CENTER” の文字が誇らしげです。「ニュー・フロンティア」を掲げて登場した若い大統領、アメリカの未来を支える若い家族、宇宙を目指すために誕生したNASA。皆が若く、未来への希望に燃えていました。1950年代後半から1960年代はじめの、アメリカが最も輝いていた時代を象徴する写真の1枚といえるでしょう。

この写真に写っている建物は、ケープ・カナヴェラル空軍基地のインダストリアル・エリアにあるハンガーS です。

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ハンガーS はアメリカ空軍が1957年に建設しました。資材の保管等が目的でしたが、すぐにアメリカ海軍研究所(NRL)が人工衛星を打ち上げるヴァンガード計画のために使用することになりました。下の写真は、その頃のインダストリアル・エリア入口にあった表示板です。

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1958年に発足したNASA は、人間を宇宙に送るマーキュリー計画をスタートさせました。この計画に使用する施設として、ハンガーS は1959年に空軍からNASA に移管されたのです。

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1961年9月、テキサス州ヒューストンに有人宇宙計画のためのセンターが建設されることになりました。10月24日、Manned Spacecraft Center(現在のジョンソン宇宙センター)が発足。これにともない、ハンガーS もこのセンターに属することになりました。ハンガーS の壁に ”MANNED SPACECRAFT CENTER” が表示されていたのは、そのような事情によります。

1963年まで、ハンガーS はNASA の有人宇宙計画の拠点となりました。ハンガーS には宇宙船のシミュレーター、宇宙船の気密をチェックするための真空チャンバー、マクダネル社の工場から運ばれてきたマーキュリー宇宙船の最終点検場、宇宙飛行士の居住区、医務室などが置かれていました。マーキュリー計画の宇宙飛行士たちは日々の訓練をここで行い、打ち上げの日にはここでメディカルチェックを受け、宇宙服を着て発射台に向かったのです。帰還して回収されたマーキュリー宇宙船もハンガーS に持ち帰られ、点検を受けました。

レッドストーンロケットによるマーキュリー3号と4号の打ち上げは第5発射台、アトラスロケットによるマーキュリー6号、7号、8号、9号の打ち上げは第14発射台で行われました。軌道上の宇宙飛行士と交信するミッション・コントロールはMCC(マーキュリー・コントロール・センター)で行われました。MCC はハンガーS とは別の場所に設置されていました。

ハンガーS は1965年からはいくつかの人工衛星ミッションのために使用されました。この頃には、有人宇宙船の打ち上げはケープ・カナヴェラル空軍基地の北に建設されたケネディ宇宙センターで行われ、宇宙飛行士の訓練やミッション・コントロールはヒューストンで行われるようになっていました。スペースシャトル計画の後期には、ハンガーS は固体ロケットブースターの整備場所として使用されました。下の写真は1966年頃のインダストリアル・エリアで、矢印の建物がハンガーS です。

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2011年のスペースシャトル計画の終了にともない、ハンガーS はその役目を終え、NASA はこの建物を撤去リストに入れました。ところが、ハンガーS はマーキュリー計画の歴史的遺産であるとして、この建物を保存する動きがはじまりました。さらに2015年にはスペースX社が6か月ハンガーS を借りたこともあり、ハンガーS はまだ解体にいたっていません。

ハンガーS は、現在内部は空っぽで、マーキュリー計画当時のものは何も残っていません。建物の外側だけが残っているのみです。そのためNASA は、保存の対象にならないと考えているようです。しかしながら、ハンガーS 以外に、マーキュリー計画当時の面影を残す施設は残っていません。第5発射台があった場所は現在、空軍宇宙&ミサイル博物館になっています。第14発射台は整備塔などがすべて撤去された廃墟状態で、発射台に向かう道の入り口に、マーキュリー計画の記念碑が建てられています。MCC の建物は2010年に解体され、コントロールルームの装置は、ケネディ宇宙センターのビジターコンプレックスに展示されています。

下の写真はGoogle Earth で見た現在のハンガーS です。建物はかなり傷んでいるようですが、あの日、ケネディやグレンや多くの人が集まっていた場所はそのまま残っています。

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Google Earth
ハンガーS はNASA の有人宇宙計画の揺籃となった場所です。何とか保存されるといいのですが。
NASAとケネディ生誕100年
NASA:JFK 100

2017年5月29日はジョン・F・ケネディ生誕100年にあたる日でした。NASA のサイトにはケネディとNASA に関する記事が写真とともに掲載されていました。そこに掲載されていた写真を何枚か紹介しましょう。

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この写真は、1962年にケネディがケープ・カナヴェラル空軍基地を視察した際のブリーフィング風景です。当時はソ連とのミサイル競争の真っただ中でした。左からNASA長官のジェームズ・ウェッブ、副大統領のリンドン・ジョンソン、NASA打ち上げ運用センター(ケネディ宇宙センターの前身)所長のクルト・デブス、ケネディ、1人おいて国防長官のロバート・マクナマラです。

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ジョン・グレンによるマーキュリー6号の飛行成功後に行われたフロリダ、ココビーチでのパレードの際の写真です。左からケネディ、ジョン・グレン、そしてレイトン・デイビス空軍大将。

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非常に有名な写真です。1961年5月25日、ケネディは議会で「アメリカは1960年代が終わらないうちに人間を月に送り、安全に地球に帰還させる」と演説しました。

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1962年9月12日にヒューストンのライス大学で行った演説の際の写真です。ケネディは、「われわれは月へ行くことを選んだ」と述べ、月を目指すことがアメリカの国家目標になったことを高らかに宣言しました。

ケネディは1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺され、アポロ11号の月着陸を見届けることはできませんでした。NASA のサイトの記事では、アポロ11号の月着陸船イーグルが月面に降り立った1969年7月20日、アーリントン墓地のケネディの墓に誰かが小さな花を飾り、「大統領、イーグルは着陸しました」というメモを置いていたというエピソードを紹介しています。

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