最近のエントリー
カテゴリー
過去のエントリー
カレンダー
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< March 2012 >>
ブログ内を検索


PROFILE
モバイル
OTHERS
北朝鮮:人工衛星の打ち上げか、長距離弾道ミサイルの発射実験か
北朝鮮が「人工衛星打ち上げ」に用いる長距離弾道ミサイルの本体部分が発射台に移動されたようです。北朝鮮は、地球観測衛星「光明星3号」を打ち上げるという声明をだしていますが、人工衛星を打ち上げるには、ロケット本体を組み立てて発射台へ運ぶだけでなく、打ち上げ基地への衛星の搬入、第3段への取り付けなど多くの作業が必要で、1か月以上前から現地での作業がはじまるのが普通です。これまで、そのような動きを伝えた情報はなく、北朝鮮が本当に人工衛星打ち上げの準備をしているのか疑問です。

打ち上げ後、世界各地の地上局とどのように連携して衛星追跡を行っていくかも不明です。また、ほぼ真南に発射するとのことですから、「光明星3号」は極軌道衛星ということになりますが、人工衛星を打ち上げた実績のない北朝鮮は、精密な軌道投入技術を要求される極軌道衛星の打ち上げに最初から挑戦するのでしょうか。

北朝鮮は1980年代に、エジプト経由で手に入れた旧ソ連のスカッドB をベースにノドンを開発しました。ノドンの最大射程は約1300km といわれています。

1998年8月31日に発射実験が行われ、第1段が日本海に、第2段が日本列島上空を飛び越え、三陸沖の太平洋上に落下したテポドン1号は、第1段がノドン、第2段がスカッドの改良型という構成だったとみられています。このとき北朝鮮は人工衛星「光明星1号」の打ち上げに成功したと主張しましたが、そのような物体が地球周回軌道上に達した事実はありませんでした。テポドン1号の最大射程は5000km に達すると推定されています。

テポドン2号は第1段に新しいロケットエンジンを採用しているとみられ、第2段がノドンという観測もあります。射程は6000km 以上と推定されています。テポドン2号は2006年7月5日に最初の発射実験が行われましたが、失敗に終わったとされています。2009年2月4日に2回目の発射実験が行われ、このときは東北地方の上空を通過しました。

120329

北朝鮮は人工衛星「光明星2号」の打ち上げ成功を発表しましたが、このときも、そのような軌道上の飛行物体は存在しませんでした。

現在、発射台にあるのがテポドン2号ないしその改良型なのか、あるいは新しいミサイルなのか、興味がもたれます。
北朝鮮、ミサイル発射場の最新画像
北朝鮮は金日成生誕100周年を記念して「人工衛星」を打ち上げるとしています。ミサイル(あるいはロケット)が打ち上げられるのは、これまでの咸鏡北道花台郡の舞水端里ミサイル発射場ではなく、平安北道鉄山郡に建設された東倉里ミサイル発射場です。GlobalSecurity.org のサイトには、この発射場をGeoEye が撮影した画像が掲載されています。

120323

3月20日に撮影されたとのことですが、発射台やアンビリカル・タワーは見えているものの、ミサイルないしロケットの姿はありません。また、人影や車も確認されません。別の画像に写っている組み立て棟周辺も同様です。北朝鮮は打ち上げを4月12日から16日の間としているようです。そうだとすると、この画像が取得された時点で、すでに打ち上げまで1か月を切っているわけですが、打ち上げの兆候が何も見えていないのは、なぜなのでしょうか。今後の成り行きを見守りたいと思います。
衛星イオの地質マップが完成
アメリカのUSGS(地質調査所)は、ボイジャー1号、2号およびガリレオ探査機によって取得されたデータをもとに、木星の衛星イオの地質マップを作成しました。

120322_01

木星の重力による潮汐作用によって、イオには活発な火山活動が存在しています。イオの火山活動は地球の25倍もアクティブといわれ、その表面に衝突クレーターは発見されていません。火山から流れ出てきた溶岩が、すべてのクレーターをおおっているからです。今回、全部で425の火山が確認されました。

120322_02

下の画像は、イオ最大の火山の1つであるロキのクローズアップです。黒く丸い部分は溶岩がカルデラを埋めてつくった溶岩湖で、真ん中の島の部分には亀裂が走っているのが見えています。ガリレオ探査機による温度の測定で、溶岩湖と亀裂部の温度が周囲にくらべて顕著に高いことがわかりました。亀裂部はとくに高温で、その下に新しく熱い溶岩が存在していることを示しています。ロキは上の画像では中央やや右上に見えています。

120322_03

USGS の地質マップでは、流出した溶岩、イオウや二酸化イオウに富む平原、山など、イオの表面物質が19のタイプに分けられています。この地質マップでロキを見てみると、下のようになっていました。

120322_04

pfd が溶岩湖にあたる部分です。同じ時代の溶岩がその右上の2個所にも見られます。このpfd と、溶岩湖の左下のpfb はきわめて新しい溶岩です。pfu はそれよりも古い溶岩ですが、それでも今から数百万年前以降につくられたものです。fu は溶岩流、pbw とpl はいずれも平原に分類される場所です。

こうした地質マップは、イオの表面をよく知るだけでなく、内部構造を理解するためのモデルをつくる上でも役に立つと考えられています。
肥満の原因となる遺伝子が明らかに
私たちの細胞の表面にはG タンパク質共役受容体(GPCR)とよばれるセンサーがあります。GPCR は生体内のさまざまな生理活性にかかわっており、創薬のターゲットとしても非常に重要です。

GPCR は細胞膜を7回貫通する特徴的な構造をもっており、細胞膜の内側でα、β、γ の3つのサブユニットからなるG タンパク質に結合しています。GPCR に物質が結合すると、下の図のように、G タンパク質のαサブユニットに結合していたGDP(グアノシン二リン酸)が離れ、かわりにGTP(グアノシン三リン酸)がαサブユニットに結合します。これによってG タンパク質は活性化され、αサブユニット+GTP は信号を伝えるメッセンジャーとなります。GPCR はこのようにしてセンサーの役割をはたしています。

120320

GPCR の中には、肥満とも関係しているものもあります。京都大学大学院薬学研究科の辻本豪三教授らのグループが『ネイチャー』誌の3月15日号(電子版では2月19日)に発表した論文によると、GPR120 というGPCR の機能がそこなわれると、食事での高カロリー摂取が原因で発生する食事性肥満の原因となります。

GPR120 は、辻本教授らが以前に発見していた不飽和長鎖遊離脂肪酸の受容体で、いわば「脂肪センサー」といえるものです。辻本教授らのグループは、GPR120 の機能を失ったノックアウトマウスをつくって実験をしてみました。すると、このマウスでは脂肪細胞の分化や脂肪酸の生成が低下し、肥満、糖尿病、脂肪肝があらわれました。また、人間での肥満との関係を調べるために、ヨーロッパの約2万人の肥満患者の遺伝子を解析したところ、GPR120 をつくる遺伝子のアミノ酸配列が1個所変異すると、食事性肥満を発症する率が高くなることが明らかになりました。

これらの結果から、脂肪センサーGPR120 が食事性の肥満に深く関与していることが示されました。食事性肥満は先進国では深刻な問題になっています。GPR120 の遺伝子の変異は、肥満や糖尿病を予防するためのオーダーメイド医療に生かされていくかもしれません。また、GPR120 を標的とした肥満や糖尿病の治療薬への応用も期待されます。

ユベール・ロベール:時間の庭
Hubert Robert:Les Jardins du Temps:Arcadia seen through ruins

国立西洋美術館の「ユベール・ロベール――時間の庭」展を見てきました。

robert

今でこそ、「廃墟のロベール」を知る人は多くなりましたが、廃墟についての書籍が出版されたり、研究論文や評論が発表されるようになる前は、多くの人が私と同じように、建築関係の本からピラネージを知り、彼との関連でパニーニやクロード・ロランなどとともにロベールの名前とその作品の一部を知るにとどまっていたのではないでしょうか。クロード・ロランはすでに国立西洋美術館で立派な展覧会がおこなわれていますが、ロベールの作品が日本でこれだけ体系的に展示されるのは、はじめてのことです。

ロベールは絵画の勉強のために1754年から11年間ローマに滞在し、古代からの建築物や草木に埋もれた遺跡を描いてまわりました。今回の展示では、この時代の素描が数多く展示されており、彼の廃墟画の原点を確認することができます。

クリストファー・ウッドワードの『廃墟論』(青土社)によると、フランスにもどったロベールが次々と発表する廃墟画に、ディドロは時間と世界に関する深遠な意味を見出しました。しかし、ロベールは「もともとが暖かい心の持ち主で、人好きのする男だった。そのために、ディドロが廃墟に対して抱いた哲学的な意味合いを、ともに分けもつことなど、とてもできる男ではなかった」と、ウッドワードは書いています。ロベールが量産する作品は、イタリアで見てきたティヴォリのシビラ神殿をさまざまにモディファイし、さらにまわりの風景や人物にも多様なバリエーションを加えるといったものでした。「彼にとって朽ち果てていく壮大な風景を描くことはひとえに、夕方、妻が舞踏会に着ていくシルクのドレスを新調するお金を稼ぎ出すためだった」。

もちろん、これは彼の作品に対する否定的な見解ではありません。むしろ、彼自身の廃墟のコンセプトがすでに確立していたことを示すエピソードといえます。今回出品されている≪マルクス・アウレリウス騎馬像、トラヤヌス記念柱、神殿の見える空想のローマ景観≫などには、彼の廃墟に関する深い考察が秘められているように思われます。また、≪古代の廃墟≫や≪アルカディアの牧人たち≫からは、彼にとっての廃墟とは、朽ち果てていく古代の建築物の姿ではなく、時間の経過の中で人工物と自然、神話の世界と現実の人間世界が調和したアルカディア(理想郷)であったことを知ることができます。それがゆえに彼の作品は、古代からの石づくりの廃墟をもたない私たち日本人にも、どこかなつかしい印象を与えるのでしょう。

「ロベールの廃墟に暗い低音が導入されるようになるのは、フランス革命の時期まで待たなくてはならない」と、ウッドワードは書いています。ロベールは1793年に革命政府によって捕えられ、1年近く投獄されてしまいます。今回の展覧会には、ロベールが獄中で皿に描いた絵も展示されています。

投獄された時期をはさんで、ロベールはルーヴル宮殿が美術館になるために大きな役割を果たしました。今回の展覧会には出品されていませんが、ロベールは1796年に≪廃墟となったグランド・ギャラリーの想像上の光景≫を発表しました。これは自らがかかわっていたルーヴル美術館のグランド・ギャラリーが、未来に廃墟となった姿を描いたものです。彼がこの絵にどのような思いをこめたかはわかりませんが、ここにはウッドワードのいう「暗い低音」が響いているのかもしれません。ロベールはこの作品で、廃墟の概念に、現在から未来へいたるベクトルを加えました。

ロベールは庭園の設計も行っています。彼の描いた廃墟(あるいはアルカディア)は実際に庭園となり、その庭園がふたたび絵画になりました。≪メレヴィルの城館と庭園≫はそのような作品であり、私はこの絵の前でしばらくたたずんでしまいました。穏やかな色彩の中に庭園が広がり、画面の右手奥にはシビラ神殿をモチーフにした神殿が見えています。そこはまさに、この展覧会の題名となった「時間の庭」でした。

なお、版画素描展示室ではピラネージの『牢獄』展も開かれていて、ロベール展の入場券で入ることができます。
ミクロラプトルの羽毛の色を復元
中国で見つかっている羽毛恐竜ミクロラプトルは、恐竜から鳥への進化を考える上できわめて興味深い存在です。ハトほどの大きさで、1億5000万年〜1億2000万年前に生息していました。

羽毛にはメラニン色素を貯蔵しているメラノソームとよばれる小胞が含まれています。北京自然史博物館、北京大学、アメリカ自然史博物館、テキサス大学オースチン校の研究者らは、北京自然史博物館にあるミクロラプトルの標本BMNHC PH881 の羽毛に残っているメラノソームの形状や並び方を走査型電子顕微鏡で観察し、現生の鳥類のメラノソームと比較しました。その結果、ミクロラプトルの羽毛は、現生のカラスと同じような光沢のある黒色で、構造色によって青く光るものだった可能性が高いということがわかりました。この研究成果は、『サイエンス』誌の3月9日号に発表されています。

復元されたミクロラプトルの姿は以下のようなものです。ほとんど鳥のような姿ですが、ミクロラプトルは、デイノニクスなども含まれる獣脚類ドロマエオサウルス科のれっきとした恐竜です。

mr

mr

ミクロラプトルの長い尾羽は扇型をしていると考えられていましたが、細長い涙滴型であることもわかりました。

mr

こうした尾羽は飛行には役に立たないと考えられ、構造色とともに、異性を引きつけるためのディスプレイの役割を果たしていたと研究者らは推測しています。そうだとすると、鳥類のディスプレイは進化のきわめて早い段階から存在していたことになります。

なお、ブラウン大学のライアン・カーニーらは、始祖鳥のメラノソームを同じような方法で調べ、始祖鳥の羽毛は黒色だったという研究結果を1月24日の『ネイチャー・コミュニケーション』誌に発表しています。
三陸海岸大津波と宮沢賢治
もうすぐ3月11日がやってきます。東北地方の1日も早い復興を願わずにはいられません。

東北地方を襲った津波はきわめて巨大なものでしたが、三陸地方は過去にもくり返し大きな津波の被害を受けています。860年、1611年、1616年、1676年、1696年、1835年、1856年、1896年、1933年などの大津波が記録に残っています。また1960年にははるかチリからやってきた津波が被害をもたらしました。このうち、1896年(明治29年)は宮沢賢治の生年に、1933年(昭和8年)は没年にあたっています。

賢治の弟である宮沢清六氏は『兄賢治の生涯』で、「賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった」と書いています。この年、6月15日には三陸海岸に大津波が押し寄せました。7月と9月には北上川が増水、また、賢治が生まれて5日目の8月31日には花巻付近で大地震が発生しました。凶作や自然災害に苦しめられる東北の人々のことをいつも考えていた賢治でしたが、その賢治の生涯が「容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった」のです。そして昭和8年、「三月三日には三陸沿岸に大津波が襲来し、二十三メートルもある大波で死傷者三千を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである」。

明治29年の三陸海岸大津波は6月15日午後8時2分に発生したマグニチュード8.5の大地震によってもたらされました。震源は岩手県釜石沖約200キロメートルの場所です。地震発生から約20分後に沿岸の潮が大きく引き、その後、巨大津波が襲ってきました。気仙郡綾里で38.2メートル、同郡吉浜で24.4メートル、田老で14.6メートルなどの波高が記録されています。この津波の死者・行方不明者は2万2000人以上で、とくに田老の集落では1859名が死亡し、わずかに36名が生存したのみといわれています。

1986

昭和8年の三陸海岸大津波は3月3日の午前2時33分に発生しました。マグニチュードは8.1、震源は明治の三陸地震とほぼ同じ場所でした。海水がはげしく引いた後に、巨大津波が襲ってきました。波高は綾里湾で28.7メートルに達しました。この津波の死者・行方不明者は3000人を超えました。

1933

東北地方は昔から冷害による凶作に見舞われてきました。賢治が生きていた時代にとくにひどい凶作となった年は、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)〜1906年(明治39年)、1913年(大正2年)、1931年(昭和6年)です。とくに明治35年と大正2年の凶作は、天保飢饉以来の規模とされています。明治の三陸大津波と昭和の三陸大津波、2つの大津波の間を生き、苦しむ農民の姿を見続けてきた賢治の心の中は、『銀河鉄道の夜』のジョバンニと同じように、「皆の幸せ」を求める気持ちでいっぱいだったでしょう。賢治は1915年(大正4年)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に入学しました。凶作のときの農民たちの悲惨な状況をよく知っていたことが、賢治が農芸化学を志望したきっかけの1つだったのではないでしょうか。

『グスコーブドリの伝記』は昭和6年の凶作の翌年に発表されました。この作品の中では、ブドリが12歳のときに冷害が襲ってきます。「五月になってもたびたび霙がぐしやぐしや降り、七月の末になっても一向に暑さが来ないために去年撒いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、大抵の果物も、花が咲いただけで落ちてしまつたのです」と、冷害の様子が書かれています。次の年も同じように冷夏になりました。「そして秋になると、たうとうほんたうの飢饉になってしまひました」。おそらく、明治38〜39年の凶作が賢治の頭の中にあったのではないかと思われます。大人になったブドリは自分の命を犠牲にして火山を噴火させ、火山からの二酸化炭素で地球を暖めることで冷害を防ぎます。

賢治は実生活においても農民の窮状を救おうと羅須地人協会の活動や農業技術の指導、肥料設計、炭酸石灰肥料の販売などを行いましたが、病に倒れました。

1933年は大豊作で、9月17日から3日間、花巻の鳥谷ヶ崎神社の祭礼がにぎやかに行われました。ずっと臥せっていた賢治は19日の夜、自宅の門の前に出て神輿を迎えました。21日、賢治は永眠しました。賢治は最後に2首を残しています。

「方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる」
稗貫のあたりの稲は熟れて、お祭りの3日間、空は晴れ渡った。
「病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし」
病気でもうすぐくちてしまう命であるが、稲の実りのために棄てるのであればうれしいことである。

▲PAGE TOP