最近のエントリー
カテゴリー
過去のエントリー
カレンダー
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< May 2011 >>
ブログ内を検索


PROFILE
モバイル
OTHERS
聖水とイコンと宇宙飛行士
バイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船で国際宇宙ステーション(ISS)に向かうクルーは、打ち上げの日、コスモノートホテルを出る前に、ロシア正教会の司祭から祝福を授かることが恒例になっています。

cosmonaut_hotel

宇宙飛行士だけでなく、発射台のロケットとソユーズ宇宙船も、祝福を授かって宇宙へ飛び立ちます。

Baikonur

1994年10月にミール宇宙ステーションに向かったソユーズTM-20のクルー、アレクサンドル・ヴィクトレンコは打ち上げに際して、クルーとロケットおよび宇宙船への祝福をロシア正教会に頼みました。以来これが恒例となりました。

司祭が宇宙飛行士に聖水をかけて祝福を授ける光景は、ロシア正教会が共産党から弾圧されていたソ連の時代にはありえないことでした。打ち上げ間近の発射台の真下に司祭が立っている光景も、以前は考えられないことでしたが、今では、打ち上げのたびに見られます。

ISS のロシアのモジュールにイコンが飾られていることは、以前に書きました。ゲンナジー・パダルカ宇宙飛行士によると、今日では、ロシアの宇宙飛行士のほとんどが自分のイコンをもって宇宙に行くとのことです。また、ロシア正教会の有名なイコン(本物)が宇宙を飛んだことも何度かあります。

バイコヌール宇宙基地で打ち上げまでに行われる様々なセレモニーや恒例行事には、ガガーリンの飛行にまでさかのぼるものもありますが、時代の変化とともに付け加わり、新たな伝統となったものも多いのです。
星の町とロックグループ
昨日、Zemlyane の「トラヴァ・ウ・ドーマ」について書きました。1983年にモスクワを訪れたとき、私はこの曲について知る機会はありませんでした。当時、話題になっていたのは、Zodiac(ゾディアック)というロックグループでした。

Zodiac は1979年にラトビアで結成されたグループで、1980年の最初のアルバム「Disco Alliance」が大成功を収めました。次に取り組んだのが「宇宙」で、1982年、スプートニク打ち上げ25周年を記念したプロジェクトとして企画されました。Zodiac のメンバーは宇宙飛行士訓練センターのある星の町を訪れ、宇宙飛行士や科学者と宇宙について語り合いました。そして完成したのが、1983年にリリースされたアルバム「Music in the Universe」です。

私もそのとき、このLPレコードを買いました。「The Mysterious Galaxy」「Laser Illumination」「The Other Side of Heaven」など7曲が収められています。

Zodiac

これはカセットテープ版です。

Zodiac

当時のソ連の宇宙活動ははなばなしいものでした。宇宙飛行士たちはサリュート宇宙ステーションで次々と宇宙滞在記録を更新し、ソ連は宇宙でのプレゼンスを確固たるものにしていました。アメリカはこのころスペースシャトルを就航させ、アポロ計画以来の空白をへて、ようやく宇宙へ復帰したところでした。共産党政権下では、ロックは西洋の退廃的な音楽と位置付けられ、公式には認められていませんでしたが、1970年代後半から1980年代はじめになると、エレキ系の楽器やシンセサイザーを演奏し、新しい音楽の可能性を求める若者たちが登場します。そうした若者たちが、Zodiac やZemlyane のように、宇宙という新しい分野に関心を示したのは当然かもしれません。

ソ連時代の宇宙開発は厳重な機密のベールに包まれていました。しかし、一方では、西洋の音楽にかぶれていると見られがちな若者たちを受け入れる面もあったのです。
宇宙で夢に見るのはわが家の芝生
古川聡宇宙飛行士もツイッターで書いていますが、打ち上げの日、宇宙飛行士が宿舎であるコスモノートホテルを出てバイコヌール宇宙基地に向かうバスに乗るときに流れるのが、Zemlyane(ゼムリャーネ)の「トラヴァ・ウ・ドーマ」です。「わが家の芝生」という意味のこの曲は、宇宙飛行士が軌道上で見る夢を歌ったものです。「宇宙で見る夢は宇宙基地じゃない。星でもない。夢に見るのはわが家の緑の芝生」。

Cosmonaut_Hotel

この曲は1983年に大ヒットしました。「ヌ・ポゴディ」という当時人気のあったアニメTV番組でも流され、多くの人に知られるようになったようです。当時ソ連ではサリュート宇宙ステーションによる宇宙長期滞在が行われており、その成果はさらにミール宇宙ステーションでの長期滞在に引き継がれていきました。スペースシャトルによる短期フライトとはことなり、宇宙に飛び立った宇宙飛行士はしばらく地球に帰ってこれないことが、この曲の背景にあります。

故郷を想う切ない気持を歌っているものの、軽快なテンポの曲で、宇宙飛行士たちも気に入り、バイコヌールで流されるようになったのでしょう。長い訓練の末に宇宙に向かう宇宙飛行士は、自らの夢、彼を支えた多くの人々の思い、そして国家の使命を担って、危険と隣り合わせの場所に向かうわけです。宇宙飛行士の内面には緊張と高揚の両方が交錯しているはずです。そんな彼らが出かけていく場面に、たしかに「トラヴァ・ウ・ドーマ」はとても似合っている曲のように思われます。

「トラヴァ・ウ・ドーマ」はZemlyane のこのCD で聴くことができます。この中には彼らがこの曲を演奏している映像も入っています。

Zemlyane

Zemlyane は1960年代末にレニングラードの学生たちが結成したグループです。メンバーはだいぶ入れかえがあったものの、オリジナルメンバーの1人、セルゲイ・スカチコフを中心に現在も活動をつづけています。すっかりおじさんのグループになってしまいましたが、今でもコンサートでは「トラヴァ・ウ・ドーマ」を歌っています。

去る4月12日、モスクワで行われたガガーリンによる世界初の有人宇宙飛行50周年記念コンサートにスカチコフが参加し、「トラヴァ・ウ・ドーマ」を新しいアレンジで歌ったとのことです。
砂漠の白い太陽
バイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船で飛び立つ宇宙飛行士は、打ち上げの前夜に『砂漠の白い太陽』という旧ソ連時代の映画を必ず見ることになっています。この伝統はかなり以前から続いているもので、1969年にこの作品が公開されてからすぐにはじまっているかもしれません。

『砂漠の白い太陽』の舞台は中央アジアの砂漠と、カスピ海に面した村です。時代は1920年ごろ。ロシア革命後の内戦が続いていた時代で、故郷へ帰る赤軍兵士と、革命政府に帰順しない現地の部族との戦いが描かれています。

The_White_Sun_of_the_Desert

内容は宇宙飛行とはまったく関係ありません。「アクション」とか「コメディ」と説明されているものもありますが、実際に作品を観てみると、けしてアクションものでもコメディでもありません。物語の展開よりも、樹木も草もまったくなく、砂漠がそのまま海に接するカスピ海沿岸の風景が印象的でした。
古川聡宇宙飛行士、いよいよ宇宙へ:トラディッショナル・ティー・パーティー
国際宇宙ステーション(ISS)第28次/第29次長期滞在クルーのマイケル・フォッサム宇宙飛行士(NASA)、古川聡宇宙飛行士、セルゲイ・ヴォルコフ宇宙飛行士(FSA)は、6月8日にバイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船でISS に向かいます。クルーはすでに5月25日、バイコヌール宇宙基地に移動しています。

古川宇宙飛行士らクルーが、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターでソユーズ宇宙船搭乗の最終試験をパスした後、ロシア連邦宇宙局(FSA)での「トラディッショナル・ティー・パーティー」に臨んだのは5月17日のことでした。この日から、クルーはロシアの有人宇宙飛行の歴史の中でつくられてきた「伝統」にしたがって、打ち上げにのぞむことになります。

トラディッショナル・ティー・パーティーとは、ウラジーミル・ポポヴキン長官をはじめ、FSA 幹部とクルーの会見のことです。古川宇宙飛行士らが、ロシアからISSへ向かうクルーとして正式に認められたことを示すセレモニーといえるでしょう。

Tea_Party

会見の後、伝統に従ってフォルティスの腕時計がクルーに贈られました。

Fortis_Cosmonaut

フォルティスは1992年に宇宙向けのクロノグラフ開発を開始しました。さまざまなテストをへて、1994年に同社のコスモノート・クロノグラフは宇宙飛行士用のオフィシャル腕時計となり、同年10月、ミール宇宙ステーションに向かうソユーズTM-20 のクルー(アレクサンドル・ヴィクトレンコ、エレーナ・コンダコワ、ESA のウルフ・メルボルト)に贈られました。以来、ソユーズで宇宙へ向かうクルーにはフォルティスのコスモノート・クロノグラフが贈られるのが伝統となっています。
エンデバー、宇宙へ
スペースシャトル、エンデバーは予定時刻通り、午後9時56分(日本時間)に打ち上げられ、最後の宇宙に向かいました。上空には雲があったため、青空に消えてゆくシャトルをずっと見ることはできませんでしたが、いつも通りの素晴らしい打ち上げでした。

STS-134

STS-134

STS-134は、16日間のフライトが予定されています。
エンデバー打ち上げへ、カウントダウン間もなく開始
延期されていたスペースシャトル、エンデバーの最後のフライト、STS-134の打ち上げは5月16日午前8時56分(アメリカ東部夏時間、日本時間16日午後9時56分)に予定されています。

sts134

カウントダウンはT−43時間からはじまりますが、途中にカウントダウン中断のホールドが入るため、約3日間をかけて、カウントダウンが進行していくことになります。カウントダウンは13日午前7時00分(アメリカ東部夏時間、日本時間13日午後8時00分)に開始される予定です。カウントダウン開始から打ち上げまでの主なイベントとその時刻は、以下のようになります(すべて日本時間)。

5月13日
午後8時00分
カウントダウン開始。T−43時間。
5月14日
午前7時00分
エンデバーの航行システムの立ち上げとテスト。
午後0時00分
カウントダウンはT−27時間まで進み、4時間のホールド開始。フライトデッキの事前点検完了。必要な作業員以外は発射台から退去。
午後4時00分
T−27時間からカウントダウン再開。エンデバーの燃料電池用タンクに極低温材充填開始。
5月15日
午前0時00分
カウントダウンはT−19時間まで進み、8時間のホールド開始。
午前4時30分
エンデバーのミッドボディ・アンビルカル・ユニット切り離し。
午前8時00分
T−19時間からカウントダウン再開。
午前9時00分
3基のメインエンジンの最終準備。
午後4時00分
カウントダウンはT−11時間まで進み、13時間36分のホールド開始。
5月16日
午前1時00分
回転式整備構造物(RSS)をパーク・ポジションに。エンデバーがその全容をあらわす。
午前5時36分
T−11時間からカウントダウン再開。
午前6時46分
エンデバーの燃料電池起動。
午前10時36分
カウントダウンはT−6時間まで進み、2時間のホールド開始。作業員は全員発射台から退去。
午後0時36分
T−6時間からカウントダウン再開。
午後0時46分頃
外部燃料タンクに推進剤充填開始。
午後3時36分
カウントダウンはT−3時間まで進み、2時間30分間のホールド開始。外部燃料タンクの推進剤充填完了。
午後6時06分
T−3時間からカウントダウン再開。
午後6時11分
クルーがO&C ビルを出て39A 発射台へ出発。
午後6時41分
クルーのエンデバー乗り込み開始。
午後7時46分
エンデバーのハッチクローズ。
午後8時46分
カウントダウンはT−20分まで進み、10分間のホールド開始。
午後8時56分
T−20分からカウントダウン再開。
午後9時07分
カウントダウンはT−9分まで進み、40分間のホールド開始。この間に打ち上げの最終判断が行われる。
午後9時47分
T−9分からカウントダウン再開。
T−9:00
地上の打ち上げシーケンサーが自動シーケンスを開始。
T−7:30
オービター・アクセス・アームが離れる。
T−5:00
補助動力装置が始動。
T−5:00
固体ロケット・ブースターと外部燃料タンクのアームが離れる。
T−3:55
オービターの補助翼のテスト。
T−3:30
メインエンジンのジンバルのテスト。
T−2:55
液体酸素タンクの加圧開始。
T−2:50
酸素ガス・ベントアームが離れる。
T−2:35
燃料電池が始動。
T−1:57
液体水素タンクの加圧開始。
T−0:50
オービターの電源を地上電源から内部電源に切り替え。
T−0:31
地上の打ち上げシークエンサーからエンデバーのコンピューターへ自動シーケンス開始コマンドを送信。自動シーケンス開始。
T−0:21
固体ロケット・ブースターのジンバルのテスト。
T−0:9.7
メインエンジン点火準備。ノズル下部の余分な水素ガスの燃焼開始。
T−0:6.6
メインエンジン点火。
T−0:午後9時56分
固体ロケット・ブースター点火。リフトオフ。
レーニンの墓
『レーニンの墓』(デイヴィッド・レムニック著、三浦元博訳、白水社)はソ連邦最後の日々を描いた作品です。著者は『ワシントン・ポスト』紙の特派員として1988年からモスクワに滞在し、ソ連邦崩壊の過程をつぶさに取材しました。

leninstomb

1991年のソ連邦崩壊前後にモスクワを訪れたことのある方には、本書はとくに興味をもって読めるはずです。私自身も1983年から何度も社会主義体制下のモスクワやレニングラードを訪れたことがあります。あのころ、ソ連経済はすでに末期的状況にあったのでしょうが、ミハイル・ゴルバチョフが登場するまでのモスクワは、私には奇妙に明るく静穏に感じられたものです。赤の広場に面した百貨店グムは人でごったがえし、モスクワで一番大きい書店であるドーム・クニーギには、多数の本が並んでいました。夜のカフェには若者たちがたくさん集まっていました。おそらく私がそのように感じたのは、社会主義の矛盾があらわれている場所には案内されなかったからでしょう。それでも、モスクワ大学の総長室での豪華な昼食会の際に、計画経済の専門家が「社会主義経済はまだ若く弱いので、大事に育てなくてはいけないのです」と語ったのは印象的でした。彼らも実は深刻な状況に気づいていたのに違いありません。

ソ連崩壊の1年前、1990年にモスクワを訪れたときには、町の様子が少し違っていることに気がつきました。以前は商品が並んでいた店のウインドウは空っぽでした。休日に私の案内役になってくれた若者は、「ゴルバチョフは暗殺されるかもしれない」と私にささやいたものです。当時の私には、その意味がよく理解できなかったのですが、本書を読んで、翌年の「八月クーデター」にいたるソ連共産党内部の権力闘争について再認識しました。モスクワ市民もそうした動きを知っていて、当時いろいろな噂が飛び交っていたのでしょう。

1995年にモスクワを訪れたときには、すべてが変わっていました。地下鉄の駅の近くには、お金をねだる老婆がいました。庶民的な百貨店であったはずのグムは、ヨーロッパのブランド商品であふれた近代的なショッピングモールに改装されていました。若者の街だったアルバート通りには高級ブティックやジュエリーショップが並び、店に入ると、おそらくはアフガン帰りのガードマンが自動小銃をもって警備していました。

1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、結果的にはパンドラの箱を開けてしまったわけですが、彼が目指していたのは、社会主義下での規律ある経済発展でした。本書でもふれられているように、その源流は1982年に共産党書記長になったユーリー・アンドロポフにあります。彼はKGB 議長としてソ連経済の停滞や非効率性、特権階級による汚職の弊害などについてよく知っていました。彼自身は病気のために1984年に死去してしまい、改革を進めることはできませんでしたが、彼が後継者として強く推したのがゴルバチョフでした。そして現在、ロシアの政治、経済を動かしているのは旧KGB 人脈であり、その頂点にいるのがウラジーミル・プーチンです。レムニックがモスクワで取材したちょうど頃、ソ連社会は激動の局面を迎え、1917年のロシア革命以来の社会主義が崩壊していきましたが、現在のロシアにいたる伏流は、実はそれ以前からあったわけです。

▲PAGE TOP