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「はやぶさ」、カプセル回収へ
小惑星探査機「はやぶさ」は第2次軌道制御を終え、イオンエンジンの連続運転を終了しました。これによって、イオンエンジンによって地球と小惑星を往復するという「はやぶさ」の大きな目的は達成されました。今後は、小惑星イトカワのサンプルを収めたカプセルの回収という最後の難関に挑むことになります。

現在「はやぶさ」は地球をかすめる軌道にあります。これは万が一、「はやぶさ」の制御が不能になった場合に、地球に落下することがないようにする措置です。今後、6月の大気圏再突入に向けて、何度か軌道を修正し、オーストラリアのウーメラへカプセルを着陸させるための精密誘導を行います。

「はやぶさ」本体から分離された直径約40cmのカプセルは秒速12km以上で大気圏に突入します。大気との摩擦温度は3000℃に達する見通しです。そのため、「はやぶさ」のカプセルの耐熱カバーは高温に耐える特殊な炭素複合材でつくられています。

大気圏再突入後、「はやぶさ」のカプセルの耐熱カバーは分離され、イトカワのサンプルを収めた容器は、パラシュートで降下していきます。アポロ計画を別とすれば、太陽系物質の地上への回収は、過去2回、NASA によって行われています。彗星のちりを採集して地球に持ち帰ったスターダストのカプセルは無事回収されましたが、太陽風物質を集めて地球に持ち帰ったジェネシスのカプセルは、大気圏再突入後、パラシュートが開かず、地上に衝突して大破しました。原因は、加速度を検知してパラシュートを開かせるための「Gスイッチ・センサー」が作動しなかったためと考えられています。下の写真は、左がスターダストのカプセル、右がジェネシスのカプセルです。

earth_return

太陽系の天体からのサンプルリターン・ミッションでは、「宇宙検疫」の問題をクリアすることが義務づけられています。宇宙検疫(Planetary Protection)とは、地球上の生命体が他の天体を汚染すること(Forward Contamination)、および他の天体の生命体が地球を汚染すること(Back Contamination)を防止するための措置です。宇宙検疫についてはCOSPAR(宇宙空間研究委員会)という国際組織で検討されています。

火星やエウロパなど、生命の存在の可能性がある天体からのサンプルリターンでは、回収されたサンプルはエボラウイルスやマールブルグウイルスのような危険性がきわめて高い病原体をあつかうバイオセイフティー・レベル4と同等あるいはそれ以上の施設に収容することが義務づけられています。SF 映画『アンドロメダ病原体』のようなことが絶対起こらないようにするためです。ただし、S型の小惑星であるイトカワはこのような範疇の天体となみなされておらず、サンプルを収容する相模原の施設にはこれだけの条件は要求されていません。

サン=テグジュペリ:キャップ・ジュビー
箱根の「星の王子さまミュージアム」に行ってきました。昨年、リニューアルが行われ、サン=テグジュペリとはあまり関係のない花壇ができていましたが、これも営業のためなのでしょう。展示コーナーは以前のままでした。

展示コーナーで足を止めてしまったのは、やはりキャップ・ジュビー(現在のモロッコ、タルファヤ)滞在時の部屋でした。1927年10月、ラテコエール社(後のアエロポスタル社)のパイロットだったサン=テグジュペリは、トゥールーズからダカールへ伸びる郵便機路線の中継基地キャップ・ジュビーに飛行場主任として赴任しました。キャップ・ジュビーは当時スペイン領で、サハラ砂漠と大西洋にはさまれた地の果てのような場所でした。小さな港とスペイン軍の砦がある以外は、何もありませんでした。

1928年末に帰国するまでの13か月間、サン=テグジュペリはこの中継基地の粗末なバラックで暮らしました。展示コーナーにあるのは、このときの彼の部屋で、ドラム管2つに板を渡しただけの机などが再現されていました。

capjuby

キャップ・ジュビーでの体験は、彼の文学の原点となりました。おそらく、彼が生涯でもっとも充実した生活を送ることができたのは、このキャップ・ジュビーの時代と、アエロポスタル社の現地法人の支配人として1929年10月にブエノスアイレスに赴任してから、1931年2月に帰国するまでの13か月間です。キャップ・ジュビー時代に『南方郵便機』が、ブエノスアイレス時代に『夜間飛行』が生まれています。

彼にとって、空を飛ぶということは、何ものかに対する責任を果たすという崇高な意味をもっていたようです。その何かとは、アエロポスタル時代は郵便を運ぶこと、そして戦時中はフランスのために危険な偵察飛行を行うことでした。1944年7月31日、彼はコルシカ島の基地から偵察飛行に飛び立ちますが、消息不明となりました。

exupery

キャップ・ジュビーの部屋を見て私が思い出したのは、彼の遺品でした。コルシカ島の基地に残されていたのは、執筆中だった『城砦』の原稿、大量のノート、書類の他には、「ホチキス一つ、壊れたパイプ一つ、アメリカ軍企画の制服一着、靴七足、パジャマ四着、海水着一着、ハンカチ十四枚、水彩セット一組、トランプ一組、洗面道具入れ一つ、電気カミソリ二つ、様々な国の硬貨少額、絹のバスローブ一着」でした(『サン=テグジュペリの生涯』、ステイシー・シフ)。貴族の家に生まれ、少年のころは大きな館で太陽王と呼ばれて自由気ままな生活をしていたサン=テグジュペリは、生涯を通じて蓄財や、ものを所有することには無関心でした。根っからの精神の貴族だったのです。

『星の王子さま』が書かれたのは、死の2年前の1942年でした。体調の異変に気付いていた彼は、すでにこのころ死を予感していたかもしれません。哲学の書ともいえる『城砦』を執筆する一方で、一種の気分転換で書かれたこの作品では、物質ではなく、精神の在り方にこそ最高の価値を置く彼の考えが、キツネの「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」という言葉として語られます。このキツネは、キャップ・ジュビー時代に彼が「飼いならした」キツネです。

作家としての名声を得たサン=テグジュペリは、パリやニューヨークでは多くの友人や知人に囲まれ、彼自身もそうした交流を楽しんでいましたが、この繊細でさびしがり屋の作家には、カフェの片隅で一人原稿を書く姿が一番似合っていたように思えます。
衛星タイタンの素顔
カッシーニ探査機は今年の1月28日に、土星の衛星タイタンへの67回目の接近を行いました。タイタンへの継続的な観測によって、この衛星について興味深い事実が次々に明らかになっています。

最近発表された論文によると、タイタンの内部は氷と岩石がミックスされた状態とのことです。タイタンは低温だったため、内部が層状の構造に分化することはなかったようです。下の図は、タイタンの内部の想像図です。オレンジ色の大気の下には、地殻にあたる氷の層(灰色)があります。その下には液体の海が存在するという仮説もあり、この図ではそれが青色で示されています。その下にも氷の層(灰色)があり、さらにその下は氷と岩石が未分化のままミックスされた状態になっています。

titan

一方、タイタンの表面の様子も次第に明らかになってきました。フランク・ハーバートのSF『デューン』シリーズに登場する惑星の名前からとられたシクン・ラビリンサス(シクンの迷宮)とよばれる地形は、地球のカルスト地形によく似ています。氷に有機物が混じったタイタンの表面を液体のメタンやエタンが流れて侵食してできた地形かもしれません。

sikun
新しい塔、新しい時代
墨田区に建設中の東京スカイツリーはすでに高さ318m に達し、間近からは、すでに1枚の写真には収められなくなっています。

skytree

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』では、建設中の東京タワーが登場していました。人々が暮らす街の向こうで、次第に高さを増すに東京タワーは、日本が戦後の復興から高度成長へと入っていく時代の象徴でした。人々は空に向かって伸びていく東京タワーに明日への希望を重ね合わせていたのです。今、私たちは東京スカイツリーにどのような思いを託そうとしているのでしょうか。

都市に新しく登場する塔は、いつも、新しい時代の象徴という役割をになってきました。

1987年、パリのマルス広場に巨大な鉄の構造物が建ちはじめたとき、やがてこの塔がパリのシンボルになると予想した人は、それほど多くはなかったようです。ほとんどの人にとって、この塔は長い歴史をもつ文化都市パリには相いれないもののように思え、芸術家たちは「無益にして醜悪」「パリの恥」「めまいがするほどに愚劣な塔」と、建設に反対しました。

当時の写真が残っていますが、これを見ると、工事中のエッフェル塔は19世紀に突然出現したバベルの塔にも似ています。誰もがはじめて見る光景でしたから、人々の反応は当然ともいえます。

eiffel

しかし、設計者のギュスタヴ・エッフェルにはいまだ姿を現さないものが見えていたのです。エッフェル塔がパリの景観を壊すという批判に対して、新しい技術は新しい美をもたらすのだと、エッフェルは反論しました。「皆さんよろしいですか。その塔は、まだ出来上がっていないのですよ。誰もまだ、実際に見ていないのですよ・・・」

当時、エッフェル塔は人々の想像を絶する構造物でした。まず、その高さです。エッフェル塔が目指したのは300m という、それまでどのような人工の構造物も到達したことのない高さでした。クフ王のピラミッドの高さは146m、ローマのサンピエトロ大聖堂は138m、ロンドンのセントポール大聖普は110m、ケルンの大聖堂は159m。エッフェル塔の少し前に完成したワシントンのオベリスクは高さ183mを目指しながらも169m にしか届きませんでした。高さ200m の塔も実現できていない時代に、エッフェル塔は、一挙に300m を目指していたのです。

エッフェル塔は1889年に開かれたパリ万博のためにつくられたものです。この年はフランス革命100年を祝う年にもあたっていました。フランス国家の力と栄光を示すには、超弩級のモニュメントがどうしても必要でした。

エッフェル塔のもう1つの特徴は、それが「鉄」の構造物だったことです。産業革命は「鉄による革命」でした。安く大量に生産される鉄が、中世以来のヨーロッパ社会を根底から変えていきました。構造材としての優れた特長によって、鉄は建築や土木の分野にも進出していきます。そのような時代の到来を告げるものが、世界最初の万国博覧会である1851年のロンドン万博に登場したクリスタル・パレス(水晶宮)でした。鉄とガラスの建築クリスタル・パレスは、石造りの建築では不可能だった広く明るい空間を初めて実現したのです。

鉄を使えば、石造りでは不可能な高さの追求も可能と考えられました。石の構造物は高さが増すにつれて自重が増大し、最後には自分自身を支えきれなくなってしまいます。300m の塔をつくるとしたら鉄を使うしかないことは明らかでした。エッフェルは、鉄骨構造物の分野で幾多の実績をもつ技術者として知られていました。彼はドゥロ橋とギャラビ橋という2つの長大橋を完成させ、鉄骨のアーチによって大空間をまたぐ技術を獲得しました。この技術を垂直方向に応用すれば、世界一の塔が可能となります。

完成したエッフェル塔は大きく3つの部分に分けられます。まず1辺125m の正方形の4隅からのびる4本の巨大な脚柱が、高さ55m の第1テラスに達する部分。次に第1テラスから、高さ110m の第2テラスに達する部分。ここから先、4本の脚柱は一体となり、天空を目指します。大小1万8000個におよぶ鉄骨の組み合わせは、塔のディテールに千変万化する繊細な陰影を与え、「鉄のレース」とたとえられました。

エッフェル塔は万国博が終われば20年後には解体されるはずでしたが、そのようなことは起こりませんでした。人々は、「鉄の時代」が始まることを理解したのです。

ATV3号機の名前は「エドアルド・アマルディ」に
国際宇宙ステーション(ISS)へ物資を運ぶESA(ヨーロッパ宇宙機関)の輸送機、ATV の3号機の名前が、イタリアの物理学者にちなんで「エドアルド・アマルディ」に決まりました。

atv

ATV の1号機「ジュール・ベルヌ」は2008年に打ち上げられました。2号機の「ヨハネス・ケプラー」は今年後半に打ち上げの予定です。いうまでもなく、ジュール・ベルヌは『月世界旅行』をはじめイマジネーション豊かな作品を書き続けたフランスのSF 作家、ヨハネス・ケプラーは天体や人工衛星の軌道計算に欠かせないケプラーの法則を発見したドイツの天文学者です。ESA への出資額からしても、3号機はイタリア人になる順番で、イタリア宇宙機関が提案したエドアルド・アマルディが採用されました。

エドアルド・アマルディ(1908〜1989)は日本ではあまり知られていないかもしれませんが、ヨーロッパの科学にとって、きわめて重要な役割を果たした科学者です。アマルディは、ローマ大学でエンリコ・フェルミの下で原子核物理学を学びました。ファシズムの台頭の下でフェルミらがアメリカに研究の新天地を求めたのに対して、アマルディはイタリアにとどまり、戦後はイタリアの物理学の復興に力を注ぎました。

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1950年代のはじめ、アマルディはヨーロッパの国々が共同で原子核の研究を行う機関を設立する計画の中心人物となりました。この研究機関が1954年にスタートしたCERN(ヨーロッパ原子核研究機構)で、アマルディは設立準備理事会の理事長をつとめました。

1957年、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げます。アマルディは宇宙分野の研究の重要性にも早くから気づき、やはりヨーロッパの国々が共同で研究を行う組織の設立でも中心的な役割を果たしました。これが1964年に設立されたESRO(ヨーロッパ宇宙研究機関)です。ESRO は1975年に設立されたESA の前身となりました。

アマルディは、いわばESA とCERN とイタリアの戦後の物理学の生みの親であり、ATV の3号機の名前にふさわしい科学者といえるでしょう。

戦後のアマルディの研究分野は宇宙線と素粒子物理学でしたが、1970年代になると重力波に関心をもつようになり、世界に先駆けて重力波の検出実験をはじめました。現在、彼の名を冠した重力波に関する国際会議が2年に1度開催されています。Amaldi 6 (重力波に関する第6回アマルディ国際会議)は2005年に沖縄で開催されました。

余談になりますが、1938年、フェルミとアマルディの下で放射線について学ぶために、チューリンからローマにやってきた医学部出身の研究者が、サルバドール・ルリアでした。生命現象を物理学の立場から考えることを学んだルリアは、その後アメリカに渡り、マックス・デルブリュックらとともにバクテリオファージの研究をはじめます。彼らファージ・グループは分子生物学の成立に大きな役割を果たしました。戦後、インディアナ大学で教鞭をとっていたルリアの学生となったのが、後にDNA の二重らせん構造を発見するジェームス・ワトソンでした。

そのようなわけで、アマルディは現代科学にとって、いろいろな分野で重要な役割を果たした人物なのです。
国際宇宙ステーション計画の将来
国際宇宙ステーション(ISS)計画に参加しているカナダ、ヨーロッパ、日本、ロシア、アメリカの各宇宙機関による宇宙機関長会議(HOA)が六本木ヒルズで開催されました。この会議に出席したのは、カナダ宇宙庁(CSA)のスティーブ・マクリーン長官、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)のジャン・ジャック・ドーダン長官、JAXAの立川敬二理事長、ロシア連邦宇宙局(FSA)のアナトリー・ペルミノフ長官、NASAのチャールズ・ボールデン長官です。

共同声明文が発表された後、「各国の宇宙機関長が語る国際宇宙ステーション計画の将来」というミニシンポジウムが行われました。一堂に会した各機関長を見て、私が最初に感じたのは、これらの機関がISS 計画を通じてつくりあげてきた強固なパートナーシップでした。各機関長はお互いに親しげでしたが、それがけっして表面的なものではなく、心からのものであることがわかりました。

20世紀の宇宙競争の時代が終わり、ISS計画によって宇宙利用の新しい国際的な協力関係が構築されたのは間違いありません。人類の未来のために、こうした関係は宇宙だけでなく、他の分野にも広がっていくべきものです。

NASA のボールデン長官は、オバマ政権がISS の運用を少なくとも2020年まで延長する2011年度予算要求を発表したことに関連して、「ISS を2020年あるいはその先まで使うことによって、宇宙でいろいろな研究を行うことができる」と、ISS を将来の計画のために積極的に利用していく姿勢を示しました。

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ボールデン長官は、NASA は将来の火星有人探査も検討しているとも述べ、これに必要な技術もISS で研究することができると語りました。
追悼 ロバート・マッコール
スペースアートの巨匠、ロバート・マッコールさんが2月26日に亡くなりました。90歳でした。マッコールさんは、1960年代はじめに『ライフ』誌などで活躍を始め、一貫して、人類の宇宙への挑戦を力強く、イマジネーション豊かなイラストレーションで描き続けました。1950年代にチェズリー・ボーンステルが開拓したスペースアートというジャンルを確立した人です。

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おそらく、マッコールさんの一番有名な作品は、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の巨大壁画『コズミック・ビュー』でしょう。宇宙の時間と空間の広大な広がりを背景に、宇宙飛行士が月面に立つ様子が描かれています。

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マッコールさんはスタンリー・キューブリック監督に頼まれ、映画『2001年宇宙の旅』のポスター用のイラストレーションも描きました。宇宙開発にあまり関心のない方でも、宇宙ステーションからスペースシャトルが飛び立っていくイラストは、どこかで見たことがあるに違いありません。

マッコールさんは、NASA のためにも多くの作品を描きました。また、最後の月面着陸となったアポロ17号、スペースシャトルの初飛行STS-1、3回目の飛行STS-3のミッションパッチも、彼のデザインによるものです。さらに、アポロ13号の帰還を指揮したフライト・ディレクター、ジーン・クランツの依頼で、ヒューストンのミッション・コントロール・チームのパッチもデザインしました。

直接お会いする機会はありませんでしたが、マッコールさんの作品の特集記事を制作した時に、何度か手紙のやりとりをしたことがあります。マッコールさんはアリゾナ州フェニックスの近くに住んでいましたが、自宅とアトリエのある通りのロマンチックな名前、「Moonlight Way」は今でも覚えています。
アメリカの生物学の教科書
『アメリカ版大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学』(講談社ブルーバックス)を買ってきました。アメリカの大学生向け生物学の教科書 ”Life:The Science of Biology 第8版”(Sinauer Associates, Inc.)から、細胞に関する5章を抽出して翻訳したものです。原書は全57章からなりますが、この後、第2巻には遺伝に関する6章が、第3巻には分子生物学に関する6章が収録されるとのことです。

アメリカの生物学の教科書には、非常によくできたものが何種類もあります(生物学には限りませんが)。たいていは1000ページ以上のボリュームがあり、生物学の基礎から応用、生物学の実験手法、さらには進化論や生態学、生物多様性など豊富な内容が、よく練られた平易な文章で解説されています。特に素晴らしいのは、わかりやすく美しいカラー図版です。こうした教科書はページ数もさることながら、値段もそれなりなので、以前はニューヨークに行った折、学生向けに中古の教科書を売っている書店に行って、購入したものです。

日本の大学の先生方の中には、これらの教科書を翻訳したいと考えている方が何人もいました。私も翻訳出版を検討したことがありましたが、実現しませんでした。それが、今回、このような誰もが読める形で出版されたのはとても意味のあることだと思います。

やはり大学生向けの教科書として定評のある『キャンベル生物学』は丸善から翻訳が出ていますが、これは1500ページ以上のボリュームがあります。大学レベルの生物学をもう少し知りたいと考えている方は、まず、このブルーバックスにトライしてみてはどうでしょう。

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