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われら7人:皆が若かった時代
アマゾンで予約していた ”WE SEVEN: By the Astronauts Themselves” が届きました。ジョン・グレンによるアメリカ人初の有人地球周回飛行が行われた1962年に刊行された本のいわば復刊で、アメリカの最初の宇宙飛行士たち「オリジナル・セブン」が、マーキュリー計画について語っています。本のタイトルが ”WE SEVEN” であれば、表紙の写真はやはりこれしかないでしょう。

we_seven_cover

どこから読みはじめようかと思って、ざっと中を見てみましたが、結局、最後から2番目の章、ジョン・グレンが書いた ”The Mission” から読むことにしました。グレンのフレンドシップ7での飛行では、地球帰還時にきわめて緊迫した場面がありました。地上のモニターに、宇宙船の熱シールドが外れているという表示が出ていたのです。もしもこれが本当なら、宇宙船は大気圏再突入時に燃えつきてしまいます。このあたりについて、グレンがどのように書いているのか、興味があります。

本書のオリジナルが出版されたころは、NASA も宇宙飛行士たちも若く、皆が大きな夢をもっていました。行く手にどんな世界が待ち受けているかもはっきりわからないまま、宇宙への挑戦を開始したのです。それから50年近くがたって、7人のうち、アラン・シェパード、バージル・グリソム、ウォルター・シラ、ゴードン・クーパー、ドナルド・スレイトンはすでに世を去っています。NASA も50歳を超え、今年はスペースシャトルの退役という大きな節目を迎えます。

おそらく、本書を読み終えないうちに、オバマ大統領によって、アメリカの新しい有人宇宙政策が発表されるでしょう。一部報道の伝えるところが本当だとすると、NASA が進めている有人計画は大きく後退することになるようです。どのような政策が発表されるにしても、マーキュリー計画の時代と現実とのギャップについて、いろいろ考えさせられることになりそうです。
オズマ計画から50年
今年は最初のSETI(地球外知的生命体探査)であるオズマ計画が行われてから50年にあたります。

銀河系内に進んだテクノロジーをもった文明があれば、宇宙に向けて電波信号を発しているに違いない。ウエストバージニア州グリーンバンクの国立電波天文台にいたフランク・ドレイク博士(下左)は、1960年4月、同天文台の直径26mの電波望遠鏡(下右)をくじら座タウ星とエリダヌス座イプシロン星に向け、人工的な信号が送られてきていないかを調べました。この2つの星が探査対象として選ばれたのは、太陽と同じタイプの恒星で、年齢も太陽と同じくらい、そして距離が10光年程度と近くにあるからです。

drake

この探査計画を、ドレイク博士はオズマ計画と名づけました。オズマとは、フランク・ボームのオズ・シリースの物語に出てくる、オズの国のプリンセスの名前です。ドレイク博士にとって、存在するにちがいないが、見つけることが難しい地球外文明は、遠くにあって訪れるのが難しい不思議なオズの国であったわけです。観測は2か月間にわたって行われましたが、人工的な信号は発見されませんでした。

最近のインタビューで、ドレイク博士は、当時、オズマ計画のアイデアを秘密にしていた理由について、それがUFO や宇宙人探しの「偽似科学」と誤解される可能性があったからだと述べています。一部にはそのような誤解や間違った評価はあったものの、SETI は天文学の1分野として継続され、現在にいたっています。最近では、電波による探査に加え、レーザー光を用いたオプティカルSETI も登場しています。

ドレイク博士は現在、カリフォルニア州マウンテンビューのSETI 研究所カール・セーガン・センターの所長です。同研究所では2007年から、小型の電波望遠鏡を多数ならべたATA によってSETI が行われています。このATA はマイクロソフトの共同設立者であるポール・アレンの資金援助で実現しました。

下の写真はSETI 研究所のペーパーウェイトで、ドレイク博士が日本に来たときにいただいたものです。裏面にドレイク博士と、一緒に来日したジル・ターター博士(現在SETI 研究所 SETI 研究センター所長)にサインしていただきました。

seti_institute

最近では、SETI とはことなるアプローチで宇宙における生命の存在を研究するアストロ・バイオロジーという学問も登場しています。この分野では、火星や木星の衛星エウロパ、土星の衛星タイタンなど、太陽系内の天体での生命が活発に研究されています。また、系外惑星、すなわち他の恒星をまわる惑星の探索では、木星のようなガス型惑星がすでに360個以上見つかっており、地上の大型望遠鏡や軌道上をまわる天文衛星によって、地球型惑星が見えはじめた段階にあります。今後、地球型の惑星が続々と発見されるでしょう。

宇宙における生命の探査は、21世紀の天文学の大きな研究課題となっています。その原点が、50年前のオズマ計画にあるわけで、今年はそのSETI 50周年を記念するイベントがいくつも行われるでしょう。ロンドンの王立協会では1月25日と26日に、SETI の現在を議論する会議が開催されました。

この会議で、ドレイク博士は「銀河系には1万個の知的文明が存在するだろう」と語りました。一方、バージェス頁岩の生物の研究で有名なケンブリッジ大学のサイモン・コンウェイ・モリスは、「地球上の生命進化は偶然の積み重ねによるもので、同じプロセスがくりかえされることはない。宇宙のどこを探しても、知的文明は存在しない」を主張しました。生命進化の研究者には、このような立場をとる人も多く、分子進化の中立説を提唱した木村資生先生も同じような発言をしていました。

この会議では、さらにNASA のクリス・マッケイがアストロ・バイオロジーの立場から太陽系内天体の生命について語ったり、オプティカルSETI をふくむSETI の最新情報が発表されるなど、話題には事欠かなかったようです。

SETI とは、「我々は何者か?」という根源的な問いに答えようとする試みといえるでしょう。この問いは、21世紀の社会においてますます重要になってきています。
火星ローバー、スピリットに新しい任務
火星ローバー、スピリットは昨年4月以来、砂に車輪をとられて立ち往生しています。これまで、砂地から脱出させるための作戦が行われてきましたが、NASA はスピリットを移動させる試みはこれ以上行わず、今後は定点観測ステーションとして運用していくことを決定しました。

この決断は、冬の到来を前にして下されました。スピリットは赤道から少し南の地点にいますが、火星の南半球は現在秋で、5月がもっとも寒くなります。この時期には気温はマイナス40℃ 以下になるため、スピリットの電子機器類をヒーターで暖めておかなくてはなりません。スピリットの背中についている太陽電池板はわずかに南を向いた状態にあります。太陽の高度は次第に低くなりつつあり、発電量はどんどん減っています。砂地から脱出させるために車輪を駆動して電力を使ってしまうと、冬を生き延びるための最低限の電力もなくなってしまう心配があるのです。

スピリットには新しい科学観測の任務が与えられたといってよいでしょう。スピリットは今後、火星の自転にともなう微少な揺れの観測などを行うことになります。わずかな揺れのデータから、火星の金属コアに融けた部分があるかどうかが分かるかもしれません。

車輪を動かすかわりに、太陽電池板の角度をできるかぎり太陽の方向に向ける措置がとられることになっています。きびしい冬を生き抜くための、スピリットの新しい挑戦がはじまります。
世界の七不思議:アレクサンドリアの灯台があった場所
世界の七不思議の1つとして有名なアレクサンドリアの灯台は、アレクサンドリアの東の湾(東港)の入口部分にあるファロス島に建てられていました。灯台を英語でpharos、フランス語でphare、ドイツ語でPharus、イタリア語でfaro といいますが、これらはみなファロス(Pharos)を語源としています。

アレクサンドリアの灯台は紀元前300年ごろに、プトレマイオス1世の命令によって建設がはじまり、紀元前250年ごろ、プトレマイオス2世の時代に完成しました。以後、1000年以上にわたって海上を照らし、岩礁の多い湾を航行する船の安全を守りました。

pharos

当時の建築技術の粋を集めて建設されたこの灯台は、高さが130m に達していたといわれています。石油や薪を燃やし、金属製の鏡で炎を反射させたため、その光は50km 先からでも確認できたと伝えられています。確かに、計算してみると、灯台の頂部が水平線から顔をのぞかせるのは40km 以上先になりますから、この表現はそれほど誇張されたものではないようです。水平線から次第に姿をあらわす灯台を見て、船乗りたちは地球が丸いことを実感したことでしょう。

現在のファロス島は本土とつながっていますが、当時は海に浮かぶ島で、本土とは長い桟橋で結ばれていました。東港には王宮のための船がつく王室専用港もありました。灯台は当時の王宮地区のちょうど対岸にあったので、宮殿からも海上を照らす灯台の光がよく見えたにちがいありません。

796年、この地を襲った地震によって灯台は倒壊してしまいました。その後1480年にスルタンのカイト・ベイによって、廃墟となった灯台の場所に要塞が建設されました。これが現在海軍博物館になっている「カイト・ベイ要塞」で、この砦の基礎は灯台の基礎をそのまま使っているのではないかと考えられています。周辺の海底からは多くの石材や彫像が発見されており、これらが灯台の一部だった可能性もあります。

一方、アレクサンドリア東港の海底調査をしているフランク・ゴディオのチームは、これまでの調査結果から、灯台はカイト・ベイ要塞のある場所よりもさらに先にあった可能性について触れています。東港の入口のちょうど真ん中あたりにある島に、灯台があったのではないかというのです。今後の海底調査で明らかになっていくかもしれません。

1月26日の、東京ミッドタウンのスルガ銀行 d-labo セミナー「古代アレクサンドリアの天文学」でも、この件について少し話をするつもりです。
スルガ銀行 d-labo セミナー

「だいち」後継機、ALOS-2
JAXAi での今日のマンスリートークでは、陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)の後継機として開発が進んでいる「ALOS-2」について、JAXA のALOS-2 プロジェクトマネージャの大沢右二さんにお話をうかがいました。

2006年1月に打ち上げられた「だいち」はすでに約4年間にわたって観測を続けています。その成果については、みなさんもJAXA のウェブサイトなどで、よくご存じでしょう。災害時の緊急観測でも大きな役割を果たしており、1月13日に発生したハイチでの大地震においても、翌14日に可視近赤外センサーAVNIR-2 で、15日に合成開口レーダーPALSAR で緊急観測を行っています。

「だいち」は光学センサーと合成開口レーダーの両方で観測を行っていますが、ALOS-2 は合成開口レーダーのみを搭載します。このため、観測に際して、光学センサーとの運用上の競合がなくなります。観測能力は大幅に向上し、広域観測モードでは分解能100m で幅350km の領域を、高分解モードでは分解能3〜10m で幅50〜70km の領域を、スポットライト・モードでは分解能1〜3m で幅25km の領域を観測可能です。つまり、広い領域の観測にも、特定の場所の高分解能での観測にも対応できるという特長をもっています。

アンテナの取り付け位置の関係で、「だいち」でのレーダー観測は、衛星の進行方向右側しかできませんでしたが、ALOS-2 では左右どちらでの観測も可能になり、観測範囲の拡大が実現されます。また、データの伝送能力も大幅に向上されます。

合成開口レーダーによる観測は、夜でも観測できる、雲を通しても地表を観測できる、草や木を通して地面を見ることもできる、地殻変動など地面の動きを精密に観測できるなどの特長をもっています。火山監視や海氷観測、森林や湿地の管理、違法伐採監視、極域監視、資源探査、災害監視など多様な分野での活躍が期待されます。

ALOS-2 は2013年度の打ち上げを目指しています。また、光学センサーを搭載したALOS-3 の研究開発も進んでいます。
タスマニアデビルを絶滅から救う
コールド・スプリング・ハーバー研究所の2010年1月のネットレターでは、同研究所のグレッグ・ハノンやエリザベス・マーチソンらによるタスマニアデビルのがんの遺伝子解析研究が紹介されています。この論文は『サイエンス』誌の2010年1月1日号に掲載されています。

タスマニアデビルはオーストラリアのタスマニア島に生息する現生では最大の肉食有袋類で、絶滅が危惧されています。その原因の1つは、タスマニアデビルの間で広がっているデビル顔面腫瘍性疾患(DFTD)とよばれるがんです。DFTD のために、タスマニアデビルの個体数は過去10年間で60%減少しており、このままでは50年以内に絶滅してしまうと心配されています。

ハノンらは採取した25の腫瘍からDFTD の遺伝子の配列決定を行い、DFTD の伝播と発症に関する遺伝子を突き止め、この腫瘍が咬むなどの身体的接触を介して個体から個体へ伝搬することを明らかにしました。こうした方法で動物間を伝搬するがんは珍しく、他にはイヌで知られているだけです。

また、ペリアキシンというタンパク質が腫瘍で発現していることがわかりました。このタンパク質をDFTD の診断や治療法の開発に利用することができれば、絶滅を防ぐための有力な手段となります。
最も遠い銀河
昨年5月のスペースシャトルによる修理ミッションで観測能力が大幅にアップしたハッブル宇宙望遠鏡が、最も遠い銀河の観測に成功しました。この観測はハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド09(HUDF09)とよばれ、ろ座の方角をWFC3(広視野カメラ3)の赤外カメラで観測しました。データの解析にあたっては、2004年にACS(掃天観測用高性能カメラ)で行った観測データも使用されました。

宇宙は膨張しているため、遠くの銀河ほど早いスピードで遠ざかり、赤く見えます。これを赤方偏移といい、その大きさをz であらわします。ハッブルが観測した画像には、z が7前後の銀河が16個、z が8前後の銀河が5個写っていました。より遠方の銀河を観測することは、より古い宇宙の姿を見ることでもあります。これらの銀河は、137億年前に宇宙が誕生してから6億〜8億年後の銀河です。

HUDF

遠方銀河の観測は、これまですばる望遠鏡の独壇場でした。すばるが観測した最も遠方の銀河は2006年に報告されたIOK-1で、z は6.964、距離にして128億8000万光年、ビッグバン後7億8000万年ごろの銀河です。

星が世代を重ねると重い元素が増えてきますが、ハッブルが観測したこれらの銀河はきわめて“青く”、ほとんど水素やヘリウムだけであることを示していました。すなわち、これらの銀河は非常に若く、宇宙に初めて銀河が誕生した時代に近い銀河と考えられます。また、そのサイズはわれわれの銀河系の20分の1程度、質量は1%程度でした。こうした小さな銀河が合体しながら、現在の銀河がつくられていったのかもしれません。

スピッツアー宇宙望遠鏡による観測結果も加味すると、これらの銀河に含まれる星の中には、この時代からさらに3億年さかのぼった頃に誕生したものもあるとのことです。おそらく、宇宙で最初の星が誕生した時代の星々です。

ビッグバンによって誕生した宇宙では、最初の3分間で水素やヘリウムなどの軽い元素がつくられました。約38万年後には宇宙の温度は3000度にまで下がり、陽子と中性子が結合して水素原子ができました。その後、最初の銀河や星が誕生すると、星の紫外光で宇宙は再び温められ、中性の水素原子は電離されました。これを「宇宙の再電離」といいます。これが起こったのは宇宙誕生後4億年から9億年の間と考えられています。

観測チームのリーダーの1人であるアリゾナ州立大学のロジャー・ウインドーストは、「われわれは宇宙の再電離の終わりの時代を見ているのかもしれない。あるいは、再電離の時代に入ってしまっているかもしれない」と語っています。これからも、さらに遠方の銀河が観測され、銀河の誕生と進化のプロセスが明らかになっていくと思われます。
ロケットと鉄道
中央線国分寺駅の北口を出て、少し歩いたところに早稲田実業学校があります。この場所は1955年に、日本で初めてのロケット発射実験が行われたところです。当時、ここは新中央工業の跡地でした。新中央工業の前身は戦前の中央工業、さらにその前身は南部銃製作所で、国分寺に南部銃製造のための工場がつくられたのは1929年のことでした。そのようなわけで、ここには銃の試射場があり、これを利用して、全長23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験が行われたのです。まさにこの場所は、日本の宇宙開発発祥の地です。2005年には、早稲田実業校門前にこれを記念した碑が設置されました。

ペンシルロケット記念碑

ペンシルロケットの水平発射実験が行われたころ、私は国分寺に住んでいましたが、当時そのような実験が行われたことは知りませんでした。大人たちの会話には出ていたのかもしれませんが、それを理解するには、まだ小さすぎたのでしょう。しかし、それから2年後、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを知った時には、家の庭から、スプートニクが見えないかと空を見上げていたことを記憶しています。そのころから、宇宙に関心はあったのですが、日本の宇宙開発の黎明となる実験が、自分が住んでいた場所のすぐ近くで行われたことを知ったのは、ずっと後になってのことでした。

ところで、国分寺は鉄道とも関係の深い場所です。現在の武蔵国分寺公園は、国鉄時代に中央鉄道学園があった場所です。ここで若き国鉄マンが鉄道や機械や通信について学んでいたのです。その技術は現在のJR に受け継がれています。中央鉄道学園は1953年に、中央鉄道教習所として設立されました。私がいたころは、誰もがただ「教習所」と呼んでいました。公園の入り口には、蒸気機関車の動輪をモチーフにした記念碑が立っています。

中央鉄道学園記念碑

場所は国立駅の北口ですが、住所は国分寺市の鉄道技術総合研究所、当時の国鉄鉄道技術研究所ができたのは1949年のことです。1950年代の末から、ここで新幹線車両の開発が行われたことは周知のとおりです。また、次世代高速鉄道すなわちリニアモーターカーの開発が開始されたのは、東海道新幹線開業の2年前、1962年のことでした。

教習所の構内や国分寺薬師堂の境内は、私たちの遊び場でした。薬師堂やその南側の湧水、お鷹の道あたりは当時のままですが、それ以外は、当時の面影をとどめているものはほとんどなくなりました。私が通っていた国分寺第四小学校も、今では道路を挟んだ向かい側に場所を移しています。50年もの歳月が流れれば当然です。その間に、ロケットと鉄道という2つの基幹技術がいかに発展を遂げたのかを考えてみると、これだけの時の流れもうなずけるというものです。

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