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アナザーワールド
『タイム』誌の「イヤー・イン・ピクチャーズ 2009」の1枚に、カッシーニ探査機が撮影した土星の写真が選ばれました。「アナザーワールド」と題された下の写真がそれです。

カッシーニ探査機が撮影した土星

この写真は今年の8月12日、太陽の光が真横から土星に差したときに撮影されました。そのため、土星の表面には環の影が落ちていません。このような現象は15年ごとにおこります。自然の色を再現するため、赤、緑、青のフィルターを用いて撮影されました。暗黒の宇宙空間に浮かぶ土星の繊細な美しさが見事に表現されていて、まるで1枚の絵画を見ているようです。

土星の印象的な写真として、これに匹敵するのは、ボイジャー1号が1980年11月16日に撮影したものしかないでしょう。土星に最接近後4日目にとられたもので、人類がこうしたアングルから土星を見たのは、これが初めてでした。カメラの解像度は今ほどではありませんが、それだけに光と影のコントラストが強烈で、土星とその環の美しいプロポーションが完璧に表現されています。

ボイジャー1号が撮影した土星

恒星間空間を目指すボイジャー・ミッションは今も継続中です。同ミッションのウェブサイトによると、2009年12月20日現在、ボイジャー1号は太陽から167億5347万kmの彼方を飛行中です。

カッシーニのニューイヤー・カードです。皆さん、良いお年を。
カッシーニのニューイヤーカード
古代アレクサンドリアの星座
しし座、おとめ座、うしかい座、りょうけん座に囲まれるようにして、淡い光を放つ星のかたまりが、かみのけ座です。その名(Coma Berenices)が示すように、かみのけ座はプトレマイオス3世の妻ベレニケの髪が星座になったものです。

かみのけ座

善行王プトレマイオス3世の時代、アレクサンドリアは世界の知を集めた都市として繁栄を極めていました。大図書館には世界中から書物が集められ、ムセイオンでは多くの学者たちが研究をしていました。港の入り口では、世界の七不思議の1つであるファロスの灯台が船乗りたちを迎えていました。

紀元前243年、ベレニケと結婚したばかりのプトレマイオス3世は、シリアとの戦争に出征します。ベレニケは、夫が無事に帰ってきたら自慢の金髪を切り、アフロディテの神殿に捧げると誓いました。プトレマイオス3世は戦いに勝利し、ベレニケは髪を神殿に捧げました。帰還した王は、ベレニケの髪が短くなっているのを見て驚きます。翌日、神殿に捧げられたベレニケの髪はなくなっていました。プトレマイオス3世は怒りましたが、天文学者コノンは、「ベレニケの髪を神々が気に入り、空に上げて星座にしたのだ」ととりなしました。それがかみのけ座です。この話は、アレクサンドリア図書館の図書目録をつくった、詩人でもあるカリマコスによって詩として残されました。

ギリシアの天文学者ヒッパルコスは、かみのけ座を星座として認めていましたが、現在の88星座のうちの48星座を定めた天文学者プトレマイオス(プトレミー)は、かみのけ座を星座として記述していませんでした。しし座の一部と考えていたためです。そのため、長い間、かみのけ座は独立した星座ではなかったのですが、ティコ・ブラーエが17世紀初めに発表した星表でこれを星座としてあつかい、かみのけ座は復活をはたしたのです。

神話を題材にしているものが多い古代の星座の中で、かみのけ座はそれにまつわる史実が残されている珍しい星座です。数々のロマンに満ちた古代アレクサンドリアの天文学について、1月26日に、東京ミッドタウンのスルガ銀行 d-labo セミナーで話をすることになっています。ご興味があれば、おいでください。
スルガ銀行 d-labo セミナー
http://www.d-labo-midtown.com/d-log-detail.php?id=194
ブルームーンの光の下で
「ブルームーン」というと、エラ・フィッツジェラルドやフランク・シナトラ、エルビス・プレスリーなどが歌った名曲を思い浮かべる人もいるかもしれません。この曲では、ブルームーンはさびしい、孤独な心をあらわす存在となっていますが、暦の上でのブルームーンは、「ひと月に2回満月があるときの、2回目の満月」とされています。

blue_moon

来年の元旦は満月で、初日の出前に西の空で部分月食が見られます。食の最大は4時22分で、月の南の部分が8%ほど欠けます。時差があるため、この月食はアメリカとヨーロッパでは12月31日に起こります。12月2日が満月でしたから、これらの地域では、この日は12月の2回目の満月です。すなわち、「ニューイヤー・イブのブルームーンに起こる月食」となるわけで、「世界天文年2009」の最後の夜を飾る天文ショーでもあります。

満月から次の満月までは29.5日かかります。したがって、2月以外の月では、満月が2回ある可能性があります。来年、日本では1月1日と1月30日、3月1日と3月30日が満月ですから、1月30日と3月30日がブルームーンとなります。1年間に満月が13回ある年、すなわちブルームーンが起こる年は2〜3年ごとにめぐってきます。

ブルームーンといっても、月の色が青く変化することはありません。しかし、月が青く見えたという記録は残っています。1883年、インドネシアのクラカトア火山が大噴火を起こし、大量の火山灰が大気中に噴き上げられました。火山灰の直径は約1μmで、赤い光を散乱させるため、人々は青色ないし緑色の月を目撃しました。また太陽はラベンダー色に見え、夕焼けは異常に赤かったといわれています。火山灰は成層圏に達し、長い間そこにとどまったため、このような現象は1年以上続きました。

もちろん、月が青く見えることなど、まれにしか起こりません。ここから、「滅多に起こらない」という意味の ”Once in the blue moon” という表現が生まれたとい言われています。最初の『ブルームーン』の曲ですが、「ブルー=メランコリー」という意味以外に、”Once in the blue moon” という意味もこめられているのです。

その後、1980年のアメリカのセントへレンズ、1983年のメキシコのエルチチョン、1991年のピナトゥボの火山噴火でも、青い色の月が見えたと報告されています。また、大規模な森林火災で発生した煙によっても、月が青く見えることがあるようです。

さて、最初のブルームーンの定義に戻りましょう。1999年のことでした。『スカイ&テレスコープ』誌に、「これまでのブルームーンの定義は間違っていた」という記事が掲載されました。しかも、その原因は『スカイ&テレスコープ』誌自身の昔の記事にあったというのです。これには、とてもびっくりしたものです。誰もが(『スカイ&テレスコープ』誌の編集者も含めて!)、ブルームーンとは「ひと月に2回満月があるときの、2回目の満月」と思っていたのですから。

「間違い」は、次のようにして起こりました。『スカイ&テレスコープ』誌の1943年7月号のコラムで、大学教員のローレンス・ラフラーがブルームーンについて触れました。彼の記事は、当時出版されていた『メイン・ファーマーズ・アルマナック』(現在メイン州ルイストンから出版されている『ファーマーズ・アルマナック』とは関係ないようです)という農事暦に書かれていたことをベースにしていました。

『メイン・ファーマーズ・アルマナック』では、冬至をスタートとして3か月ごとを、「冬」「春」「夏」「秋」と決めていました。各季節の満月は基本的に3回ですが、1年間に満月が13回ある年には、どこかの季節で満月が4回になります。そして、満月が4回ある季節の3回目の満月をブルームーンと呼んでいたのです。各季節の3回目の満月は、その季節がそろそろ終わることを告げるものですが、満月が4回ある場合の3回目の満月では、季節の移り変わりを告げるには早いため、このような呼び方をしたのです。この決め方では、ブルームーンが起こるのは2月、5月、8月、11月です。

ラフラーは『メイン・ファーマーズ・アルマナック』に書かれているブルームーンという言葉を紹介しましたが、上に書いたような内容をくわしくは説明しませんでした。その後、『スカイ&テレスコープ』誌の1946年3月号で、アマチュア天文学者のジェームズ・ヒュー・プルーエットがラフラーの記事について言及しましたが、彼自身は『メイン・ファーマーズ・アルマナック』を読んでいませんでした。そして、「1年間に満月が13回ある年には、ある月には満月が2回ある。そのときの2回目の満月はブルームーンと呼ばれる」と書いてしまったのです。その後、『スカイ&テレスコープ』誌の記事やラジオ番組などで、ブルームーンの新しい(間違った)定義は世間に広まっていきました。

ブルームーンとは現代のフォークロア、あるいは都市伝説と言えるものです。現在では、伝統的なブルームーンと新しい定義の現代的なブルームーンが両方存在しています。ブルームーンについて書かれた記事では、ほとんどの場合、『スカイ&テレスコープ』誌の記事に触れられていますが、天文学者も天文雑誌や科学雑誌の編集者も、新しい定義のブルームーンを間違いとして排除することはしませんでした。ブルームーンという、どこかミステリアスな言葉に誘われて、多くの人が天文現象に興味をもってくれればそれでいいと、皆が考えているからです。
カッシーニ・ミッションのクリスマスカード
土星とその衛星の探査を続けているカッシーニ探査機からのクリスマスカードです。贈り物の箱を開けると、中から土星と衛星が飛び出してくるというデザインです。

カッシーニクリスマスカード

カッシーニ探査機は1997年に打ち上げられ、2004年に土星に到達しました。それ以来、数多くの興味深い発見をしています。その中の1つは、衛星エンケラドスから噴き出すジェットです。また、かすみにおおわれている衛星タイタンの表面も観測しており、次第に全球の地図ができあがりつつあります。

そのカッシーニ探査機からの洒落たデザインのカードを、私はいつも楽しみにしています。その中の何枚かを紹介しましょう。左上は今年のハロウィーン、右上は去年のハロウィーンのカードです。左下は今年のバレンタイン、右下は去年のクリスマスカードです。

カッシーニカード

カッシーニ探査機は地球から12億km以上も離れたところで観測をしていますが、こうしたカードがミッションチームから送られてくると、カッシーニがとても身近に感じられるから不思議です。
ソユーズTMA-17 打ち上げ
野口聡一宇宙飛行士が搭乗したソユーズTMA-17が、日本時間の今朝6時52分に打ち上げられました。野口宇宙飛行士は第22次/第23次長期滞在クルーとして、国際宇宙ステーション(ISS)に約5か月滞在する予定です。来年にはスペースシャトルの退役が予定されており、今後ISSに長期滞在する予定の古川聡、星出彰彦両宇宙飛行士もソユーズで宇宙に旅立つことになります。

ソユーズの打ち上げは、「いつもの通り」行われました。打ち上げまでの手順やいくつものセレモニーは、すべて長い間の習慣としてバイコヌール宇宙基地で確立してきたものです。夜間の打ち上げであったため、中継映像では少し物足りない感じがしましたが、写真ではやはり迫力のあるシーンが撮られています。

soyuzTMAb

私が今回の写真で最も気に入っているのは、ソユーズロケットが発射台に到着する前のシーンです。移動中のロケットの向こう側に発射台が見えています。まだあたりは暗く、発射台は照明で明るく浮かび上がっています。左右に大きく開かれたサービスタワーの各階にもライトが灯っています。

soyuzTMA17a

ソユーズ発射台の写真をこれまでたくさん見てきましたが、こうした光景を見るのは初めてです。現地で見ると、おそらくとても幻想的だったのではないでしょうか。
ソユーズTMA-17 発射台へ
野口聡一宇宙飛行士のソユーズロケットによる打ち上げが迫ってきました。カザフスタンのバイコヌール宇宙基地では、昨日、ソユーズロケットのロールアウト、発射台への輸送、発射台での起立作業が行われました。下の写真は、発射台に運ばれるソユーズロケットです。ソユーズロケットのロールアウトはいつも通り、朝の7時にはじまりました。この季節では、この時刻はまだ暗く、ロケットが発射台に着くころに空が明るくなってきます。

SoyuzTMA17

打ち上げは日本時間で21日(月)の午前6時です。現地時間で午前3時52分の夜間打ち上げとなります。当日、丸の内オアゾ2階のJAXAi は午前6時にオープンし、打ち上げの模様を生中継します。また、18時30分からのマンスリートークでは、打ち上げの収録VTRを見ながら、野口ミッションやソユーズ宇宙船などについて、私が解説をする予定です。
エジプトにおける聖家族
ベツレヘムの星の続きの話です。「マタイによる福音書」によると、イエスを訪れた3人の占星術の学者は、ヘロデ王に会うことなく、自分の国に帰ってしまいました。イエスを探し出して殺そうというもくろみが外れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で生まれた2歳以下の男児を皆殺しにするため、兵を差し向けます。ヨセフの夢の中に天使があらわれて告げました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」。ヨセフはその夜のうちに、イエスとマリアを連れてエジプトに向かいます。これが、「聖家族のエジプト避難」です。ヘロデ王が死ぬまで、3人はエジプトにとどまりました。

私の手元に『エジプトにおける聖家族』という本があります。10月のフランクフルト・ブックフェアで、エジプトのセンター・オブ・マーケティングのサファト・アバザ氏にいただいたもので、ヨセフとマリア、そしてイエスのエジプトでの旅の経路が、写真と文で紹介されています。聖書には、3人がどこを旅したかは書いてありませんので、コプト教の文書や伝承などをもとにしたものと思われます。「この本文は教皇シェノウダ契い梁臉仔屋儖会により1999年に作成および修正されました」という記述がみられます。下の写真の左はこの本の表紙、右はこの本の中で紹介されている聖家族のエジプト避難を描いた聖画像(オールドカイロ、コプト博物館蔵)です。

holy_family

アバザ氏によると、この本は、エジプトの人たちだけでつくった日本語の本なのだそうです。私がアレクサンドリア図書館と交流していることを知り、今後のお互いの良い関係のためにと、贈呈してくれました。考えてみると、私たちがエジプトについて知っていることの多くは、欧米の著者による出版物からの情報です。エジプトから日本へ、すなわちアラビア語から日本語という言語の変換を経て直接入ってくる情報はきわめて少ないのが現状です。もちろん、その逆についても同様です。こうした言語の壁を突破して、日本とアラビア語圏との直接的な対話を実現したいと、私は考えています。

ファラオの王朝として成立したエジプトは、ギリシアやその他の地中海世界の文化を受け入れ、アレクサンドリアはヘレニズム世界の中心となりました。イスラム教もキリスト教も受け入れました。『エジプトにおける聖家族』の「まえがき」で、エジプト政府の観光大臣、マンドゥーハ・エル・ベルタギ博士は次のように語っています。「エジプト人は異なるものを一体化すること、すなわち融合が国と文化の基となっていることを知っています。この認識は、言葉の異なる人々や文化・宗教などの違いから生ずる違和感を和らげています」

アバザ氏とは、何ができるかを考えながら、メールのやりとりをしているところです。
ベツレヘムの星
この季節、街のあちこちでクリスマスのイルミネーションが見られます。クリスマスツリーの一番上に飾られる星は、イエスが生まれたときに出現したベツレヘムの星です。この星の正体が何であったのかについては、昔からいろいろな説があります。

ルネサンス初期の画家、ジョット(1267〜1337)の『東方三博士の礼拝』では、イエスの生まれた小屋の上に彗星が描かれています。この彗星は76年周期のハレー彗星で、ジョットがこの絵を描く前の1301年に出現しました。ジョットがハレー彗星を実際に見たかどうかは定かではありませんが、少なくとも、その出現に強い印象を受け、これをベツレヘムの星として描いたわけです。イエスが生まれたころのハレー彗星の出現時期は紀元前12年なので、これをベツレヘムの星と考える人もいます。余談ですが、ハレー彗星が1986年に地球に接近したとき、ヨーロッパが打ち上げたハレー彗星探査機「ジョット」は、この絵を描いた画家の名前にちなみ名付けられたのです。

東方三博士の礼拝

ベツレヘムの星は『新約聖書』の「マタイによる福音書」に出てきます。イエスが生まれたとき、エルサレムのヘロデ王のところに、東方から3人の「占星術の学者」(以前の聖書では「博士」あるいは「学者」と訳されていましたが、1987年の『新共同訳聖書』でこうなりました)がやって来て言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」。ヘロデ王は不安になり、エルサレムの学者たちを集めて、預言では救世主はどこで生まれることになっているかと聞きます。それはベツレヘムであると、彼らは答えました。そこでヘロデ王は占星術の学者たちを呼び寄せ、「星の現れた時期」を確かめ、ベツレヘムへ行ってその子のことを調べてほしいと頼みます。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み」、イエスのいる場所の上に止まります。「学者たちはその星を見て」喜びにあふれました。聖書でベツレヘムの星について述べられているのは、これだけです。

ベツレヘムの星が象徴ではなく、実際に起こった天文現象であったとすると、それが何かを知るためには、まずイエスの生まれた年が問題になってきます。紀元1年がイエスの生まれた年とされているわけですが、実際のイエスの誕生年はそれより少し早いことがわかっています。イエスの両親、ヨセフとマリアがベツレヘムへ行ったのは、ローマ皇帝アウグストゥスの人口調査令のためでしたが、これが行われたのは紀元前8〜5年です。ヘロデ王がイエス、すなわちユダヤの王の誕生をおそれて2歳以下の男児を皆殺しにしたのが紀元前6〜5年、ヘロデ王が死んだのが紀元前4年です。したがって、イエスの誕生は紀元前7〜5年あたりとみられています。このころにおこった、占星術的に見て特別な意味をもつ天文現象を探さなくてはなりません。

もう1つ、ベツレヘムの星が現れた方角も大事になるかもしれません。占星術の学者は、「東方で」星を見たのですが、この部分は原文からすると「東の場所で」という意味以外に、「東の空に」とも解釈できるのです。また、ベツレヘムはエルサレムの南にありますので、星が占星術の学者たちに先立って進んだということは、このとき、星は南の方角に見えていたことになります。一晩のうちに、星は東から西に移動しますから、どの方角に見えていても問題ないとも考えられますが、ある星または特別な天文現象が東の空にあらわれる(昇ってくる)こと自体が、ベツレヘムの星の意味だとする考えもあるのです。

さて、ベツレヘムの星とは何だったのでしょうか。彗星は候補の1つです。ハレー彗星は出現時期からみて少し無理があるかもしれませんが、イエスが生まれたころに別の彗星が出現していたかもしれません。ただし、それに該当する彗星の記録は残っていません。

一生の終わりに爆発して明るく輝く超新星も、候補になります。ヨハネス・ケプラーはこの説をとっていました。彼は1604年に超新星を観測していますが、そのとき木星と土星が接近しており、超新星はこの2つの惑星の間の位置に出現しました。そこで、ケプラーは惑星が接近した時に超新星が生まれると考えました。彼は惑星の軌道計算によって、紀元前7年に木星と土星が接近したこと、さらに紀元前6年には火星と木星と土星が接近したことを知っており、このときに出現した超新星がベツレヘムの星だと考えたのです。

紀元前7年には木星と土星の接近(会合)がうお座で3回おこりました。この3連会合はめずらしい現象なので、これがベツレヘムの星であるという説もあります。聖書で「星」は単数形になっていますが、それ自体、複数の概念をふくむ言葉とされていますので、こうした天文現象も、ベツレヘムの星の候補となり得るのです。3回の会合の日付については、文献によっていくつか別の組み合わせがあります。計算に使ったプログラムのせいかもしれません。私が「ステラナビゲーター」で調べたところでは、5月27日、10月6日、12月1日というのが正しいようです。

比較的最近では、紀元前6年に木星がおひつじ座にあり、4月に東の空に昇ってきたことがベツレヘムの星だという説が出されています。これはローマ時代のコインに、おひつじが振り向いて星を見ているという図柄のものがあることから考え出されたものです。この年、木星はおひつじ座の中を行ったり来たりするのですが、12月に方向を変えるために止まったときが、ベツレヘムの星がイエスの小屋の上に止まったときだというのです。

ベツレヘムの星が何であるか、たくさんの説が出ていますが、結論が出ることはないでしょう。しかし、それはそれでいいのではないかと、私は思います。キリスト教徒でない私たちも少しだけ聖書の世界に親しみ、古い時代の天文現象に思いをはせることができるのも、クリスマスの楽しみの1つです。
温暖化はストップしていなかった
2009年の世界平均気温は来年1月にならないと確定しませんが、WMO(世界気象機関)は12月8日付けのプレスリリースで、1850年の観測開始以来、2009年が史上5番目に暑い年になるという見通しを発表しました。下の図が、1850年から現在までの世界平均気温の推移です。3つの機関の、それぞれ独立したデータが示されています。黒い線はイギリス気象局ハドレーセンター、赤い線はNOAA(アメリカ海洋大気局)の国立気候データセンター、青い線はNASA のGISS(ゴダード宇宙科学研究所)によるものです。

世界平均気温

人為的な原因による地球温暖化を否定しようとする懐疑派の人たちの中には、「最近10年間、温暖化は止まっている」と主張している人もいます。また、2008年の冬には世界気温が急に下がり、「地球温暖化は終わった」と大騒ぎする人もいました。地球温暖化が止まっているという主張は、これまでずっと続いていましたが、実際には今回発表されたデータが示すように、温暖化はストップしていなかったわけです。

1998年はきわめて暑い年でしたが、これは強力なエルニーニョのためでした。エルニーニョというのは、東太平洋の赤道域が高温になる現象で、エルニーニョがおこると、世界平均気温は上昇する傾向がみられます。一方、この海域に冷たい海水がわき上がってくる現象がラニーニャで、これがおこると世界平均気温は低下します。2008年の気温低下はラニーニャのためでした。エルニーニョとラニーニャは交互にくり返してあらわれ、「エルニーニョ南方振動」(ENSO)とよばれています。2009年が観測史上5番目の暑さになったのも、ラニーニャが終わってエルニーニョのフェーズに入ったことと関連しています。毎年の世界の気温はこうした自然変動で上下していますので、短い期間のデータで温暖化が起こっているか、いないかを語るのは意味をもちません。温暖化は長期的なトレンドの中でしか出てこないのです。

観測された世界平均気温からENSO の影響を取り除いたらどうなるでしょうか。下の図がそれです。赤い破線はハドレーセンターのデータで、赤い実線はENSO の影響を取り除いたもの、青い破線はGISS のデータ、青い実線はENSO の影響を取り除いたものです。

ENSOの影響を除いた世界気温

この図には、1950年から2007年までのデータが示されています。1963年、1982年、1991年に気温が著しく低下していますが、これはアグン山、エルチチョン山、ピナトゥボ山の噴火による影響です。1980年代以降の世界平均気温は、1991年のピナトゥボ山による気温低下を除いて考えると、細かい上下を繰り返しながらも一貫して上昇してきたことがよく分かります。気温を押し上げてきたのは、二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスです。

WMOのプレスリリースは、2000年から2009年が観測史上最も暑かった10年になることも明らかにしています。2009年は、中国やオーストラリアでは観測史上第3位の暑い年でした。また、2009年にはヨーロッパ、インド、中国北部をきびしい熱波が襲ったこと、中国では過去50年間で最悪の干ばつが発生したことも報告されています。
「はやぶさ」とスピリット:2つの探査機
一時、地球への帰還があやぶまれた小惑星探査機「はやぶさ」は、満足に働かなくなった4基のイオンエンジンのうち、まだ動いているスラスターA の中和器と、スラスターB のイオン源を組み合わせることによって、1基のイオンエンジン分の推進力を得るという離れ技で、ふたたび地球への帰還を開始しました。まさに、「立ち直りの早い」そして「型破り」な探査機の面目躍如といったところです。もちろん、予断を許さない状況は続いており、「はやぶさ」チームにとっては、息の抜けない日々が続いています。

火星では、もう1つの型破りな探査機が、砂からの脱出を試みています。NASA の火星ローバー、スピリットは、双子の探査機オポチュニティーとともに、すでに6年近く火星の探査を続けています。3度のきびしい火星の冬にも耐えてきました。スピリットのこれまでの移動距離は合計で7.73km に達していますが、トロイとよばれる場所で砂に車輪をとられ、立ち往生しています。

スピリットのチームは、砂からスピリットを脱出させるため、慎重に検討を重ねた上で、11月17日に、スピリットを前進させるコマンドを送りました。しかし、スピリットが動きはじめたとたんに、姿勢(傾き)の変化が設定限度の1度を超えてしまったため、1秒もたたずに停止しました。11月19日に行われた2度目の試みでは、スピリットは12mm 進みました。11月21日の3回目の試みでは、スピリットは4mm 進みましたが、右の後輪がストールしたため、停止しました。11月24日には状況を診断するために前進のコマンドが送られ、スピリットは2.1mm 進みました。11月28日にも前進のコマンドが送られましたが、やはり右の後輪がストールし、0.5mm しか進みませんでした。

スピリットのチームはこうした結果を慎重に検討しながら、次の対策を立てています。スピリットの状況を判断するには、テレメトリーデータ以外に、スピリットのカメラからの画像が重要な役割をはたしています。しかし、データの伝送に時間がかかるため、状況をすぐに把握できない状態が続いています。

下は、スピリットの前部障害物回避カメラが撮影した、11月28日の前進が終わった後の写真です。真中に黒く見えているのは、顕微鏡カメラなどの観測装置を取り付けてあるロボットアームの影です。スピリットの右前輪は2006年に動かなくなっています。そのため、スピリットはこのところずっと、後向きに移動してきました。写真に両輪のわだちが見えており、右前輪のわだちが引きずったように見えるのはそのためです。

スピリット

スピリットのマストの上についているパノラマ・カメラとナビゲーション・カメラは360度の撮影が可能です。またローバーの胴体下部についている障害物回避カメラは前と後ろについているので、スピリットは後ろ向きの場合でも、カメラで進行方向を確認しながら進むことができます。現在、「前進」のコマンドが送られているのは、砂に車輪をとられた場所から後退して脱出することを意味しています。
IPCC のデータ捏造疑惑は本当か?
すでに皆さんも新聞記事やブログの情報でご存じのように、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の「データ捏造疑惑」なるものが、主にアメリカやヨーロッパの懐疑派(温室効果ガスによる地球温暖化に否定的立場をとる人々)のブログで盛り上がっています。地球温暖化研究の世界的拠点の1つであるイギリス、イーストアングリア大学の気候研究ユニット(CRU)のサーバーに何者かが侵入し、1996年から最近までの1000通以上のメールが盗まれ、ウェブ上で公開されてしまったのです。CRU のフィル・ジョーンズ所長はメールが本物であることを認めました。盗まれたメールの中には、温室効果ガスによる地球温暖化の証拠としてIPCC が使ったデータが捏造されたものであることを示唆する内容のものもあるとされ、ウォーターゲートならぬ「クライメートゲート」という言葉まで登場しました。

この騒動でまず私が言いたいのは、不正に取得され、許可なくネット上にアップされたメールの内容を、そのまま転載して批判している懐疑派のやり方はマナー違反だということです。不正に取得された情報は、いくら重要なことが書かれていると思っても、無視すべきであると私は考えます。真相を追及したいのなら、別の方法を使うべきです。今回の懐疑派の人たちの行動は、サーバーへの不法侵入という犯罪に加担していると非難されても仕方ないでしょう。メールを書いた人物をおとしめ、IPCC の報告書に不信感をもたせる目的で、不法侵入者はデータをアップし、「告発メール」を懐疑派に送りつけたのですから。今回の事件の報道で、ニューヨーク・タイムズ紙やBBC などの大手メディアがメールの文面を引用していないのは流石です。

この事件について、「IPCC のデータ捏造疑惑」という言葉が使われていますが、これでは「IPCC データ」なるものがあり、これが捏造かどうか問題になっているかのように受け止められてしまいます。実際には、IPCC が採用した個別の研究に「データ捏造疑惑」があるということです。その対象となっているのは、いわゆるホッケースティック曲線です。これについては先日も書きましたが、「疑惑」が本当なのかどうかを検証するため、もう一度、最初から説明しましょう。

ペンシルベニア州立大学のマイケル・マンらは、木の年輪、氷床コア、サンゴなどのデータを用いて、過去600年間の北半球平均気温を復元し、1998年に『ネイチャー』誌に発表しました。翌1999年には、過去1000年までを復元した論文を『ジオフィジカル・リサーチ・レターズ』誌に発表しました。後者に掲載されていたグラフは2001年に発表されたIPCC の第3次評価報告書に収録されました。これがホッケースティック曲線とよばれることになったグラフです。

ホッケースティック

青い線が復元された過去の気温、黒い線は40年平均をとって変化をなめらかにしたもの、灰色の部分は推定気温の誤差の範囲を示しています。赤い線は温度計で測られた実際の気温です。過去の気温はあまり変化を示さず、わずかに低くなりながらほぼ直線状に推移していますが、20世紀に入ったあたりから、気温は急上昇しています。この形がホッケーで使うスティックに似ていることから、ホッケースティックの名がつけられたのです。

IPCC の第3次評価報告書では、このグラフは、20世紀の気温上昇が過去に例のない特別なものであり、温室効果ガスによる気温上昇を示唆するものとして位置づけられていました。一方、温室効果ガスによる地球温暖化を否定したい懐疑派からは、「中世の温暖期や小氷期が再現されていない。このデータは信頼性に欠ける」「近年の気温上昇が特別であることを強調するための操作が行われている」といった批判がもちあがり、ホッケースティック曲線は、IPCC 対懐疑派の象徴的存在となっていったのです。

2003年、スティーブン・マッキンタイアらは、「マンらが使用したデータを使って再計算したところ、ことなる結果が出た。マンらのデータ処理方法は間違っている」という、ホッケースティック曲線を否定する論文を発表しました。これに対してマンらは、マッキンタイアらの計算方法は正しくないと反論しました。

2004年、マンらは1998年の論文に関する訂正を『ネイチャー』誌に掲載しました。この訂正をもって、マンらの結論が間違っていたかのような記述がみられますが、これは誤りです。訂正されたのは使用したデータの出所の一部であり、論文の結果に影響を与えるものではありませんでした。

ホッケースティック論争は議会の注目するところとなり、全米科学アカデミーの関連団体である全米研究会議(NRC)内に過去2000年間の気温を検討する委員会がつくられました。この委員会の報告書は2006年に発表されました。報告書では、過去の気温復元に関する複数の研究が検討されています。下のグラフは、この報告書に掲載されているもので、6つの研究結果が色分けで示されています。最近の黒く太い線は温度計による実測値です。

NRC

このグラフを見ると、1000年ごろの中世の温暖期とよばれる時代には気温が比較的高く、1400〜1700年ころの小氷期とよばれる時代には気温が比較的低いといった傾向はみられるものの、その変動幅はマンらのホッケースティック曲線の誤差の範囲にほとんど含まれています。20世紀に入ってからの気温の急激な上昇はここでも明らかです。報告書では、結論として以下の点を上げています。
・20世紀の最後の数十年間の世界平均気温は、過去400年間のいかなる時期よりも
 高かった。
・より古い時代については不確実性が増すものの、ほとんどの場所で、最近25年間
 の気温は、過去1100年間のどの時期よりも高かったと考えられる。
・北半球の20世紀の気温が過去1000年間のどの時期よりも高かったというマンらの
 結論は、過去の気温復元の研究結果からも、世界的な氷河の後退をはじめとするさ
 まざまな事例からも支持される。

2007年に発表されたIPCC 第4次評価報告書では、過去1300年間の気温についてさらに多くの研究結果を収録したグラフが示されています。下のグラフがそれで、このうち紺色の線はマンらのホッケースティック曲線です。「ホッケースティック曲線は間違っていたので、IPCC の第4次報告書では削除された」という記述が一部にみられますが、これは誤りです。

IPCC第4次報告書

このグラフに収録されているデータには、NRC のグラフに載っているものも、そうでないものもあります。気温の復元に使用したデータの種類や処理の仕方で、さまざまな曲線が描かれていますが、気温の実測値(黒い線)と比べてみれば、20世紀の最後の数十年間の気温は、過去1300年間のどの時期よりも高くなっています。ホッケースティック曲線が、他の研究結果と比べて特別に外れた傾向を示していないこともわかります。それどころか、これらの曲線をオーバーラップさせた下のグラフでは、最も重なりの多い部分(色の濃い部分)の形はホッケースティック曲線とほぼ同じであることがわかります。

IPCC第4次報告書2

ホッケースティック曲線は、学問が進歩してきている今となってはわざわざ取り上げる必要はないが、当時としては良い仕事だったし、今からみても明らかな間違いはなかったといえるでしょう。ところが、今回の騒動で、ふたたび「捏造疑惑」がもち上がりました。はたして、ホッケースティック曲線に使われたデータには、意図的な結論を導き出すために捏造された部分があるのでしょうか? 私自身がマンらのデータをチェックしたわけではありませんが、答は否でしょう。マンらは当時からデータを公開していました。そして、マンらをはげしく批判したマッキンタイアらは、マンらから提供された同じデータを使って再計算をしたわけですから、もしもデータの捏造があったとしたら、そのころすでに明らかになっていたはずです。

しかし、「今回明らかになったジョーンズ所長のメールには、データの捏造を示す内容が書かれていたではないか」という方もいるでしょう。最初に書いたように、ジョーンズ所長のメールを引用するのはしたくないのですが、すでにネット上で出回っていることでもあるので、「疑惑」を晴らすために引用して、検証してみましょう。問題となっているのは、以下の文章です。

I’ve just completed Mike’s Nature trick of adding in the real temps to each series for the last 20 years (ie from 1981 onwards) and from 1961 for Keith’s to hide the decline.

このメールは、マン(Mike)らが1998年に『ネイチャー』誌に発表した論文に関するものです。“trick” や ”hide” といった刺激的な言葉が見られますが、これは私信であるための特別な言葉遣いという面があるかもしれません。あまり先入観にとらわれずに、この文章を読んでみましょう。文章の前半は、復元したデータと一緒に、実測値もグラフにプロットする(add)ことを意味しています。復元データに実測値を組み入れてデータ操作をするということではありません。復元データは1980年までなので、実測値を一緒にプロットしておけば、1981年以降の気温上昇が示せるという考えなのでしょう。実際に、ホッケースティック曲線はそうなっています(下)。

ホッケースティック部分

後半は、年輪のデータについて触れたものです。樹木の成長は気温に影響されるため、年輪の幅を過去の気温の指標として利用することができます。ところが、1960年ごろ以降は、実際の気温は上昇していくのに対して、年輪が示す気温は低くなっていく(decline)という傾向が北半球高緯度の樹木でみられるのです。キース・ブリッファ(Keith)はこれについて1998年に『ネイチャー』誌に論文を発表しています。ジョーンズ所長の文章は、1961年以降の年輪のデータはそのまま使うことができないことを意味するものです。私には、ジョーンズ所長のメールがデータ捏造を示しているとは読めません。

『ネイチャー』誌12月3日号のエディトリアルのページでは、このメールについて触れており、”trick” とは賢い(合法的な)テクニックを意味するスラングであるとした上で、『ネイチャー』誌は論文に重大な疑惑があると判断された場合には調査を行うのが編集方針だが、今回のメールに関してはそのような点は見受けられないとしています。

懐疑派が主張している「データ捏造疑惑」に、何の根拠もないことは明らかです。今回の騒動で最も大事なことは、地球温暖化研究で重要な役割を果たしてきた研究者たちの、1996年から2009年にいたる1000通以上のメールを調べても、IPCC を批判するために使えたのは、今ではほとんど意味をもたないホッケースティック曲線だけだったという点です。それ以外のどのメールを見ても、懐疑派が主張するような「データの捏造」や「政治的意図による事実の歪曲」や「陰謀」などを示す証拠は見つからなかったのでしょう。科学的な研究によって明らかにされてきた温室効果ガスによる地球温暖化という事実を、それを否定したい懐疑派の人々自身が証明してしまったのです。

『ネイチャー』誌12月3日号は、「盗まれたメールは科学的陰謀を明らかにすることはなかったが、気候学者が世間からより支持されていくための方法について光を当てた」と述べています。「捏造疑惑」とは別の問題として、この事件をきっかけに、気候変動という社会的にも重要な意味をもつ科学の進め方について、研究者たちはいろいろ考えはじめていることを、最後につけ加えておきます。
トウモロコシのゲノム解読完了
Reference genome of maize is published

コールド・スプリング・ハーバー研究所からは、毎月ネットレターが配信されています。11月号では、前フェローのキャロル・グライダーのノーベル賞受賞が祝福されていましたが、最近送られてきた12月号ではトウモロコシのゲノム解読完了が報告されています。

イネとともに、人類にとって最も大事な穀物であるトウモロコシのゲノム解読完了の論文は、『サイエンス』誌の11月20日号に掲載されました。トウモロコシのゲノム23億塩基対の配列が決定され、3万2000個以上の遺伝子が特定されました。またゲノム全体の85%は、数百の転移因子ファミリーから構成されていることもわかりました。転移因子とはゲノム上を動くことのできる塩基配列のことです。トウモロコシのゲノムは、これまでわかっているものの中で最も複雑であったと報告されています。

science091120

トウモロコシのゲノム解読にあたってコールド・スプリング・ハーバー研究所は重要な役割を果たしました。そもそも、同研究所はトウモロコシとは切っても切れない関係にあります。20世紀のはじめには、コールド・スプリング・ハーバー研究所ではすでにトウモロコシの遺伝子の研究が確立していました。1940〜50年代にはバーバラ・マクリントックがトウモロコシの研究から「動く遺伝子」を発見し、1983年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。トウモロコシのゲノム解読で中心的な役割を果たした同研究所のドリーン・ウエアー、ロバート・マーティンセン、リチャード・マッコンビーのうち、マーティンセンはトウモロコシが野生種から今日の栽培種になるにあたって重要な役割をはたした「ラモサ1」遺伝子の発見者の1人です。また、マッコンビーはイネゲノム解読国際チームのリーダーの1人でした。

トウモロコシのゲノム解読は遺伝学にとって画期的な成果であり、トウモロコシや他の穀物の基礎研究や、人類にとって貴重な食料であり、燃料源でもあるトウモロコシの収量増加に役立つだろうと、ネットレターは述べています。
世界エイズデー:日本の状況
世界エイズデーの12月1日、日本でも各地でエイズ予防のイベントやキャンペーンが行われました。

日本のHIV 感染者およびエイズ患者の新規発生数は、このところ毎年増加してきました。先進国では唯一、日本だけがこうした傾向を示しており、日本のHIV 感染防止対策がまだ不十分であることを物語っています。

厚生労働省エイズ動向委員会の発表によると、2008年1年間の新規HIV 感染者数は1126人、新規エイズ患者数は431人で、両者を合わせた数字は1557人となり、前年より57人増えています。2008年までのHIV 感染者数およびエイズ患者数の年次推移は以下の通りです。両者を合わせた累計は2005年に1万人を超えています。

エイズ発生動向

今年の状況はどうかというと、2008年12月30日から9月27日までのデータしかありませんが、新規HIV 感染者数764人、新規エイズ患者数336人となっており、わずかですが、前年同時期より少ない数字になっています。このままいけば、毎年の増加傾向がやっとストップすることになりますが、これで安心することはできません。

HIV の感染を経路別にみると、男性同性間の性的接触による感染が最も多く、異性間の性的接触がそれに次いでいます。15〜24歳のHIV 感染者を性別・感染経路別にみると、男性同性間の性的接触による感染の割合が非常に高く、しかも毎年増加傾向にあります。また、異性間HIV 感染者の年齢別・性別構成では、15〜19歳、20〜24歳で女性の割合が特に高くなっています。若い世代の感染を防止するには、学校での予防教育を徹底することが必要です。
中世の温暖期や小氷期は局地的現象
今から1000年ほど前のヨーロッパは、バイキングが氷のない北の海を行き来したり、グリーンランドに植民が行われるなど、温暖な気候だったことがわかっています。この時期は「中世の温暖期」とよばれています。一方、15世紀から17世紀にかけてのヨーロッパや北アメリカは、氷河が拡大し、川や運河が凍結するなど寒冷な気候だったことが絵画や文書に残されています。この時期は「小氷期」とよばれています。

ペンシルベニア州立大学のマイケル・マンらは、木の年輪やサンゴ、氷床コアなどのデータから、過去1000年間の北半球平均気温を復元した論文を1999年に発表しました。このデータは2001年に発表されたIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第3次評価報告書にも掲載されました。マンらが復元した過去の気温のグラフでは、中世の温暖期や小氷期は明瞭にはあらわれていませんでした。過去の気温はあまり変化せず、ほぼ直線状に推移し、20世紀の気温だけが急上昇しているため、このグラフは「ホッケースティック曲線」とよばれることになりました。曲線の形がホッケーのスティックに似ていたからです。ホッケースティック曲線は、温室効果ガスによる地球温暖化説に異議をとなえる、いわゆる「懐疑派」のグループから批判を受けることになりました。「このグラフには中世の温暖期や小氷期が再現されておらず、信頼性に欠ける」「中世の温暖期は今よりも気温が高かった。20世紀の気温上昇は特別なことではない」といった批判です。

中世の温暖期や小氷期が地球規模のものであったとすれば、過去の気温にもそれがあらわれるはずです。しかし、それがヨーロッパや北アメリカで局地的に起こった現象であれば、復元されたデータにあらわれてこなくても、不思議ではありません。いったい、どちらなのでしょうか?

マンらが『サイエンス』誌の11月27日号に発表した論文は、この問題に対する彼ら自身の解答といえるものです。今回、マンらは、木の年輪、氷柱サンプル、サンゴ、堆積物など1000以上のデータから、過去1500年間の気温を復元し、中世の温暖期と小氷期のグローバルな気温分布を調べました。

その結果、中世の温暖期(950〜1250年)には北大西洋、グリーンランド南部、および北アメリカの一部などで気温が高くなっていましたが、ユーラシア大陸中央部や北アメリカ北西部、太平洋熱帯域などでは気温が低かったことがわかりました。また、小氷期(1400〜1700年)には北半球のほとんどの地域で寒冷だったものの、大西洋、アメリカ、アジアなどの一部には、気温の高い地域も出現していました。すなわち、中世の温暖期や小氷期は局地的な現象であるという結果が出たのです。

中世の温暖期の気温分布はラニーニャのパターンに似ていました。マンらは、太陽の放射量の変化にともなってあらわれるエルニーニョやラニーニャ、さらには北大西洋振動が、こうした気温の地域的偏差の原因であると述べています。

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