ロケットと鉄道
中央線国分寺駅の北口を出て、少し歩いたところに早稲田実業学校があります。この場所は1955年に、日本で初めてのロケット発射実験が行われたところです。当時、ここは新中央工業の跡地でした。新中央工業の前身は戦前の中央工業、さらにその前身は南部銃製作所で、国分寺に南部銃製造のための工場がつくられたのは1929年のことでした。そのようなわけで、ここには銃の試射場があり、これを利用して、全長23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験が行われたのです。まさにこの場所は、日本の宇宙開発発祥の地です。2005年には、早稲田実業校門前にこれを記念した碑が設置されました。

ペンシルロケットの水平発射実験が行われたころ、私は国分寺に住んでいましたが、当時そのような実験が行われたことは知りませんでした。大人たちの会話には出ていたのかもしれませんが、それを理解するには、まだ小さすぎたのでしょう。しかし、それから2年後、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを知った時には、家の庭から、スプートニクが見えないかと空を見上げていたことを記憶しています。そのころから、宇宙に関心はあったのですが、日本の宇宙開発の黎明となる実験が、自分が住んでいた場所のすぐ近くで行われたことを知ったのは、ずっと後になってのことでした。
ところで、国分寺は鉄道とも関係の深い場所です。現在の武蔵国分寺公園は、国鉄時代に中央鉄道学園があった場所です。ここで若き国鉄マンが鉄道や機械や通信について学んでいたのです。その技術は現在のJR に受け継がれています。中央鉄道学園は1953年に、中央鉄道教習所として設立されました。私がいたころは、誰もがただ「教習所」と呼んでいました。公園の入り口には、蒸気機関車の動輪をモチーフにした記念碑が立っています。

場所は国立駅の北口ですが、住所は国分寺市の鉄道技術総合研究所、当時の国鉄鉄道技術研究所ができたのは1949年のことです。1950年代の末から、ここで新幹線車両の開発が行われたことは周知のとおりです。また、次世代高速鉄道すなわちリニアモーターカーの開発が開始されたのは、東海道新幹線開業の2年前、1962年のことでした。
教習所の構内や国分寺薬師堂の境内は、私たちの遊び場でした。薬師堂やその南側の湧水、お鷹の道あたりは当時のままですが、それ以外は、当時の面影をとどめているものはほとんどなくなりました。私が通っていた国分寺第四小学校も、今では道路を挟んだ向かい側に場所を移しています。50年もの歳月が流れれば当然です。その間に、ロケットと鉄道という2つの基幹技術がいかに発展を遂げたのかを考えてみると、これだけの時の流れもうなずけるというものです。

ペンシルロケットの水平発射実験が行われたころ、私は国分寺に住んでいましたが、当時そのような実験が行われたことは知りませんでした。大人たちの会話には出ていたのかもしれませんが、それを理解するには、まだ小さすぎたのでしょう。しかし、それから2年後、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを知った時には、家の庭から、スプートニクが見えないかと空を見上げていたことを記憶しています。そのころから、宇宙に関心はあったのですが、日本の宇宙開発の黎明となる実験が、自分が住んでいた場所のすぐ近くで行われたことを知ったのは、ずっと後になってのことでした。
ところで、国分寺は鉄道とも関係の深い場所です。現在の武蔵国分寺公園は、国鉄時代に中央鉄道学園があった場所です。ここで若き国鉄マンが鉄道や機械や通信について学んでいたのです。その技術は現在のJR に受け継がれています。中央鉄道学園は1953年に、中央鉄道教習所として設立されました。私がいたころは、誰もがただ「教習所」と呼んでいました。公園の入り口には、蒸気機関車の動輪をモチーフにした記念碑が立っています。

場所は国立駅の北口ですが、住所は国分寺市の鉄道技術総合研究所、当時の国鉄鉄道技術研究所ができたのは1949年のことです。1950年代の末から、ここで新幹線車両の開発が行われたことは周知のとおりです。また、次世代高速鉄道すなわちリニアモーターカーの開発が開始されたのは、東海道新幹線開業の2年前、1962年のことでした。
教習所の構内や国分寺薬師堂の境内は、私たちの遊び場でした。薬師堂やその南側の湧水、お鷹の道あたりは当時のままですが、それ以外は、当時の面影をとどめているものはほとんどなくなりました。私が通っていた国分寺第四小学校も、今では道路を挟んだ向かい側に場所を移しています。50年もの歳月が流れれば当然です。その間に、ロケットと鉄道という2つの基幹技術がいかに発展を遂げたのかを考えてみると、これだけの時の流れもうなずけるというものです。