キラウエア火山:溶岩の流出続く

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    KiraueaEruption of Lava Continues

     

    ハワイ島のキラウエア火山が活発な活動を続けています。

     

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    はげしく噴き上がる溶岩は時には高さ10m以上にも達しています。粘性が低い溶岩は川のような流れになり、520日には海岸にまで達しました。海水と反応して水蒸気が上っています。オーシャン・エントリーとよばれる現象です。

     

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    ハワイ島は北からコハラ、マウナケア、フアラライ、マウナロア、キラウエアという5つの火山からできています。ハワイ島の南東部に位置するキラウエアはその中で一番若い火山です。標高1248mの頂上にあるのがキラウエア・カルデラで、直径は5km×3km。カルデラの周囲にはビジター・センターやハワイ火山観測所(HVO)、トーマス・ジャガー博物館があり、ハワイ島の観光名所になっています。火山に関する展示があるトーマス・ジャガー博物館の展望台からはカルデラ内を眺望することができます。

     

    キラウエア・カルデラは1924年までは常に溶岩をたたえていました。1924年にカルデラ内のハレマウマウ火口で大規模な水蒸気爆発が起こりました。以後、カルデラ内の活動は比較的静穏になりましたが、それでもたびたび溶岩を流出しています。2008年にはハレマウマウ内に新しい火口ができ、オーバールック火口とよばれています。

     

    キラウエア・カルデラの西にはサウスウェスト・リフトゾーン、東側にはイースト・リフト・ゾーンとよばれる噴火帯が伸びています。キラウエア火山の特徴は、カルデラ内の活動に加え、こうした噴火帯から大量の溶岩が流出する点にあります。キラウエア火山をつくっているマグマ溜りはカルデラの真下約2~3kmという非常に浅いところにあり、上昇してくるマグマはカルデラ内の火口だけでなく、これらの噴火帯へも移動していくのです。

     

    サウスウェスト・リフトゾーンでは1974年に溶岩流出がありましたが、それ以降、活動はありません。最近の活動はイースト・リフト・ゾーンに移っています。イースト・リフト・ゾーンはキラウエア・カルデラに近いアッパー・イースト・リフト・ゾーン、その東のミドル・イースト・リフト・ゾーン、さらにその東のロワー・イースト・リフト・ゾーンに分けられます。

     

    現在のキラウエア火山の活動は、1983年から続いているものです。1983年、キラウエア・カルデラの東約15kmの地点ではげしい溶岩の噴出がはじまりました。アッパー・イースト・リフト・ゾーンとミドル・イースト・リフト・ゾーンの境あたりの場所です。溶岩の噴出は3年以上にわたり、高さ255mになった火砕丘はプウオーオーと名づけられました。1986年に溶岩の噴出は北東にできた割れ目に移動しました。溶岩は州道130号線を分断し、海に達しました。1992年には再びプウオーオーが活動を開始しました。プウオーオーの活動は2007年にも活発になり、北東部に新しい割れ目が生まれ、溶岩が流出しました。2008年から2014年の間、プウオーオーとその東にできた割れ目から大量の溶岩が流出し、海に達しています。

     

    今年53日に始まった溶岩の流出は、ロワー・イースト・リフト・ゾーンで起こりました。レイナニ・エステーツという住宅地に割れ目が出現し、溶岩が噴出しました。以後、現在までに合計23個の割れ目が生じています。

     

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    現在割れ目噴火が特に活発なのはレイナニ・エステーツよりも東の22196523の割れ目で、流出した溶岩が海岸にまで達しています。下はUSGS(アメリカ地質調査所)が発表している地図の一部です。

     

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    一方、ハレマウマウ火口は515日に水蒸気爆発を起こし、翌16日には噴煙が高度9000mに達しました。同火口は以後も噴煙を上げています。

     

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    キラウエア火山の活動は今後も続きそうです。


    巨大津波は予測できたか?

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      福島第一原発に関し、国と東電に損害賠償を求めていた集団訴訟の判決が京都地裁でありました。「津波を予見できたのに対策を怠った」として、賠償を命じるものでした。報道によると、判決は政府が2002年に発表した「長期評価」で津波地震が起こり得ると指摘した点を重視したとのことです。

       

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      私はちょうど、東日本大震災から7年目の節目で当時の地震学の状況を振り返り、「長期評価」に関してここここここここに詳しく書いたところでした。

       

      これを読んでいただければお分かりになると思いますが、当時国や東電がマグニチュード9の地震や、それによって引き起こされる大津波を予見することは不可能でした。なぜなら、地震学者自身がそれを予測できなかったからです。東電は、既往の津波をもとに当時定められていた土木学会の「原子力発電所の津波評価技術」に基づいて津波対策を行っており、基準で定められた津波の高さをさらにかさ上げした防潮堤を設置していました。

       

      土木学会は2011年当時、新しい津波評価技術の検討に入ろうとしていたところでした。したがって、東電がそれに先駆けて巨大津波を予見し、対策を取ることはできない状況でした。

       

      裁判官は判決にあたって地震や津波に関していろいろと勉強したのだと思いますが、限界があります。海外の文献まで含めて当時の地震学の状況を把握し、「長期評価」自体を客観的に評価することはできないでしょう。阿蘇山が噴火した際の火砕流が海を越えて伊方原発にまで達するという昨年の広島高裁の判断の際にも感じたのですが、こうした専門的内容を扱う裁判の方法は今のままでよいのだろうかと考えてしまいます。


      東日本大震災:地震学者の責任(4)

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        これまで書いてきたように、日本の地震学者は3000億円以上を使っても地震予知を行うことができず、マグニチュード9の巨大地震を想定できず、貞観地震と同じ規模の巨大津波が襲来することを社会に警告できず、東北地方が大津波に襲われる確率は今後10年以内に2%という予測を2002年に行って、2011311日の東日本大震災を迎えてしまいました。

         

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        島崎氏も述べているように、貞観地震に関しては201123月に地震調査会で審議し、4月に公表の予定でした。貞観地震クラスの巨大津波の可能性について、ようやく地震学者の間でコンセンサスが得られ、国の地震対策・津波対策に反映されるというプロセスがはじまろうとしていた矢先に、東北地方太平洋沖地震が起きてしまったわけです。間に合わなくて残念だったという考えもありますが、貞観地震は江戸時代からよく知られていたわけですから、この地震にちゃんと向き合ってこなかった地震学者の怠慢と私は考えています。

         

        地方自治体や民間の防災対策は、国が定めた安全基準や設計基準などにしたがって実施されます。したがって、たとえば東京電力が2011年以前の段階で、科学的評価が不十分なマグニチュード9の地震を想定し、有効な対策を取ることは事実上不可能でした。20111月時点で、福島原発の位置で震度6強以上の揺れになる地震が発生する確率を、地震学者は30年間で0%としていました。2011512日の記者会見で、この件に関する質問があり、島崎氏は次のように答えています。

         

        「地震学者は当時、福島県や房総沖では、太平洋プレートは地震を起こさずにゆっくり動いてユーラシアプレートの下に沈みこんでいると考えていた。福島沖では過去400年間のうち、1938年にだけマグニチュード7前後の地震が3回起きた。それ以外の400年間、マグニチュード7を超える地震は1回も起きていなかった。これをわれわれは、福島県沖ではプレートがするするともぐり込んでおり、ときどきひっかかって地震を起こすと解釈した。それが1938年の3回の地震である。400年間に1回しか起きないわけであるから、30年間の発生確率を計算するとほとんど0%という非常に低い数字になってしまった。ところは、実際はその解釈とはまるっきり反対に、プレートは400年間がっちりとくっついており、エネルギーがたまって、それが今回の地震になった。当時の考えは誤りであった。発生確率0%というのは非常に基本的な誤りの結果であった」

         

        このように、島崎氏は地震学者が福島第一原発を襲う大地震や巨大津波を予測できなかったことを認めました。ところがその後、島崎氏だけでなく、他の地震学者も「東京電力は巨大津波を予測できた」という主張を繰り広げることになりました。

         

        たとえば、津波研究が専門で「長期評価」にも参加した元東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣氏は、国と東電に損害賠償を求める裁判で原告側証人として出廷し、「事故の9年前には予測が可能であった。事前の対策は実施できた」と述べています。巨大津波に乗り越えられてしまった東北沿岸の防潮堤の中には、都司氏がアドバイスしたり、設計に参加したものがあったはずです。もしも予測できていたのなら、まずそれらの防潮堤の改修を提案すべきでした。

         

        東日本大震災から7年の節目に、これまで書いてきたような経緯を振り返ると、日本の多くの地震学者は自らの社会的責任を果たすことも、未曾有の大震災に真摯に向き合うこともなかったと、私は考えています。



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