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ペンシルロケット:国分寺インディ・ジョーンズ計画
Pencil rocket:Kokubunji Indiana Jones Project

1955年4月12日に、日本で初めてのロケット発射実験が糸川英夫博士によって国分寺市で行われました。全長23センチメートルのペンシルロケットの水平発射実験でした。

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写真提供:JAXA

この実験場所を探そうというのが「国分寺インディ・ジョーンズ計画」です。

ペンシルロケットの発射実験は、終戦まで銃器を製造していた中央工業の工場跡地にある半地下式の試射場で行われました。実験場所はそれから2年後には埋められて新日鐵のグラウンドとなり、現在は早稲田実業学校のグラウンドになっています。実験から60年もたっているので、実験が行われたのは「だいたいこのあたり」ということは分かっていても、「ここです」とはなかなか言えない状態でした。

私は昨年、当時の地図や航空写真、JAXA宇宙科学研究所に残っていた実験時の写真などを分析し、実験場所をある程度正確に特定することができました。実験が行われた半地下のコンクリート構造物は、今もその場所の地下に、まるで「遺跡」のように眠っていると思われます。しかし、現在はグラウンドになっているので、掘り起して実際にそこにあることを確かめることはできません。

なんとか、その場所を確かめたい。そこで私が考えたのが「地中レーダー」でした。地中レーダーとは、地中へ電磁波を照射して、その反射波から埋設物の探査を行う装置です。私はその昔、吉村作治氏がひきいる早稲田大学古代エジプト調査隊が遺跡の探査に地中レーダーを使っていたのを覚えていました。もしかしたら、この方法で地下の構造物を確認することができるかもしれません。

私は早稲田大学エジプト学研究所所長の近藤二郎先生に連絡し、この計画を相談しました。近藤先生からは、現在地中レーダーを使って遺跡調査を行っている城倉正祥先生(早稲田大学東アジア都城・シルククロード考古学研究所所長)をご紹介いただきました。城倉先生にはこの計画への協力を快諾していただきました。

こうして、早稲田大学考古学研究室の協力により、まもなく現地での調査が行われることになりました。ペンシルロケットの発射実験が行われた当時、私は国分寺第四小学校に通っていました。駅の反対側ですが、近くにいたのです。そのような縁もあり、いつのまにか「国分寺インディ・ジョーンズ計画」とよばれるようになったこの計画でどのような調査結果がでるか、私はとても楽しみにしています。
ペンシルロケットのペーパークラフト
ペンシルロケット発射60周年を記念して、国分寺市ではいくつものイベントが行われています。企画展「ペンシルロケット60年目の待ち合わせin国分寺」は明日まで開催。本日と明日は、「ペンシルロケットを作ろう!」も行われます。

この「ペンシルロケットを作ろう!」は、ペーパークラフトで実物大のペンシルロケットを作り、飛ばしてみるイベントです。

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私もこのペーパークラフトを作ってみましたが、なかなかうまくできています。紙を円筒形や円錐形に丸めたり、その円筒や円錐を糊付けの際に内側から押さえたりするには、断面が円形のお箸(なるべく長いもの)を使うのが便利なようです。出来上がったものを、私がもっているペンシルの模型(右)と並べてみたのが、下の写真です。

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このペーパークラフトは日本宇宙フォーラムが企画・販売しています。問い合わせは03-6206-4902まで。
ペンシルの時代:ロケットと宇宙旅行
Rockets and Space travel:Era of Pencil rocket

4月12日は国分寺でペンシルの水平発射実験が行われて60周年にあたります。国分寺市では、いくつものイベントが行われます。

ペンシルロケットが開発され飛行した時代は、世界でも日本でも、ロケットや宇宙旅行に関心が高まっていた時代でした。それはスプートニク以前の時代であり、宇宙がまだ想像の域を出ない時代でした。それだけに、宇宙に対する夢とあこがれがいっぱいの時代だったのです。

下は、アメリカの『コリアー』誌1952年3月22日号です。「宇宙探検」の特集号で、ウェルナー・フォン・ブラウンをはじめ科学者たちが宇宙探検の未来を語っています。

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有名なスペース・アーティスト、チェズリー・ボーンステルが素晴らしいイラストを描いています。表紙も彼が描いたものです。

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下は東雲堂が発行していた『科学クラブ』の「ロケットと宇宙旅行」特集号(1957年)です。糸川英夫博士が監修。ロケット、人工衛星、宇宙ステーション、月世界旅行などが図解され、世界で開発されているロケットも紹介されています。

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当時はすでにペンシルロケットに続くベビーロケットの実験も終了していました。そのベビーロケットの図面が示されています。

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日本が目指していたロケットによる高層大気の観測も、以下のように解説されています。

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子供の頃の私は、この特集号を読み、宇宙への挑戦に胸を躍らせたものです。
ペンシルロケット実験から60年
60th anniversary of Pencil rocket

4月12日は、国分寺市でペンシルロケットの水平発射実験が行われてからちょうど60年にあたります。これを記念して、国分寺市では、「企画展」「水平発射水ロケット大会」「記念講演会」を行います。

宇宙のポータルサイト「UNIVERSE」にも投稿しましたが、私は以前から、実験が行われた場所が今の早稲田実業グラウンドのどこなのかを正確に知りたいと思っていました。そこで今回、当時の地図や写真などを使って、その場所を調査しました。当時のことをご存じの方にお話もうかがいました。この調査には、国分寺市にもご協力いただきました。

その結果、実験場所の位置を正確に知ることができました。それがどこであるかは、4月11日から国分寺市本多公民館で開催される企画展「ペンシルロケット60年目の待ち合わせ in 国分寺」で、パネル展示される予定です。

国分寺でのペンシル実験に関しては、他にも知りたいことがあり、現在調査中です。
国分寺市とペンシル:60年前の想い
今年は、糸川英夫博士が国分寺市でペンシルロケットの水平発射実験を行ってから、60年目にあたります。「日本の宇宙開発発祥の地」である国分寺市では、さまざまな事業を計画しています。

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今日、私はその国分寺市を訪問しました。

以前も書きましたが、私はペンシルロケットの実験が行われた時、国分寺第四小学校に通っていました。そのようなご縁もあり、私の最近の宇宙関係の本を、国分寺市の図書館と国分寺第四小学校、そして市役所の市政戦略室の方々のところに寄贈させていただきました。

国分寺市は、私が宇宙にはじめて関心を持った思い出多い場所です。国分寺市のホームページには、宇宙に関連した事業に関し「60年前の想い 今につながる」というバナーが貼られています。市の担当の方とお話をし、私自身にとっても、60年前の想いが現在につながった日となりました。
ロケットと鉄道
中央線国分寺駅の北口を出て、少し歩いたところに早稲田実業学校があります。この場所は1955年に、日本で初めてのロケット発射実験が行われたところです。当時、ここは新中央工業の跡地でした。新中央工業の前身は戦前の中央工業、さらにその前身は南部銃製作所で、国分寺に南部銃製造のための工場がつくられたのは1929年のことでした。そのようなわけで、ここには銃の試射場があり、これを利用して、全長23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験が行われたのです。まさにこの場所は、日本の宇宙開発発祥の地です。2005年には、早稲田実業校門前にこれを記念した碑が設置されました。

ペンシルロケット記念碑

ペンシルロケットの水平発射実験が行われたころ、私は国分寺に住んでいましたが、当時そのような実験が行われたことは知りませんでした。大人たちの会話には出ていたのかもしれませんが、それを理解するには、まだ小さすぎたのでしょう。しかし、それから2年後、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを知った時には、家の庭から、スプートニクが見えないかと空を見上げていたことを記憶しています。そのころから、宇宙に関心はあったのですが、日本の宇宙開発の黎明となる実験が、自分が住んでいた場所のすぐ近くで行われたことを知ったのは、ずっと後になってのことでした。

ところで、国分寺は鉄道とも関係の深い場所です。現在の武蔵国分寺公園は、国鉄時代に中央鉄道学園があった場所です。ここで若き国鉄マンが鉄道や機械や通信について学んでいたのです。その技術は現在のJR に受け継がれています。中央鉄道学園は1953年に、中央鉄道教習所として設立されました。私がいたころは、誰もがただ「教習所」と呼んでいました。公園の入り口には、蒸気機関車の動輪をモチーフにした記念碑が立っています。

中央鉄道学園記念碑

場所は国立駅の北口ですが、住所は国分寺市の鉄道技術総合研究所、当時の国鉄鉄道技術研究所ができたのは1949年のことです。1950年代の末から、ここで新幹線車両の開発が行われたことは周知のとおりです。また、次世代高速鉄道すなわちリニアモーターカーの開発が開始されたのは、東海道新幹線開業の2年前、1962年のことでした。

教習所の構内や国分寺薬師堂の境内は、私たちの遊び場でした。薬師堂やその南側の湧水、お鷹の道あたりは当時のままですが、それ以外は、当時の面影をとどめているものはほとんどなくなりました。私が通っていた国分寺第四小学校も、今では道路を挟んだ向かい側に場所を移しています。50年もの歳月が流れれば当然です。その間に、ロケットと鉄道という2つの基幹技術がいかに発展を遂げたのかを考えてみると、これだけの時の流れもうなずけるというものです。

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