最近のエントリー
カテゴリー
過去のエントリー
カレンダー
S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
ブログ内を検索


PROFILE
モバイル
OTHERS
『銀河鉄道の夜』:天気輪の柱のモデルとなった天頂儀
下の古いポストカードは、先日、オークションで入手したものです。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」のモデルになった水沢の緯度観測所の天頂儀が写っています。

20150413_01

現在は国立天文台水沢VLBI 観測所となっている緯度観測所は、明治32年(1899)に地球の回転を精密に観測する国際共同事業のために設置されました。天頂儀(暗視天頂儀)とは天頂を見るための天体望遠鏡です。天頂付近の星が子午線を通過する時刻を、毎晩この天頂儀で詳しく測定していました。

天気輪の柱については、この本で詳しく説明していますが、賢治の造語で、『銀河鉄道の夜』の主人公のジョバンニが夜空を見上げる丘の上と、天頂に輝くこと座の1等星ベガ(すなわち銀河ステーション)を結ぶ、いわばワープ装置のような存在です。大正13年(1924)3月に緯度観測所を訪問した賢治は、そこで天頂儀を見て、この発想に至りました。この年の夏から、賢治は『銀河鉄道の夜』を書き始めます。

20150413_02

天気輪の柱は、「空の三角標」に変容します。三角標も賢治の造語で、三角測量で用いられた測標とよばれるやぐらのことです。測標は三角点の上に建てられます。したがって、天気輪の柱は、三角点のある場所に存在したと考えられます。その場所は、賢治が愛した種山ヶ原の頂上の物見山でした。ここには、1等三角点「種山」があります。ここが、天頂に輝く空の1等三角点であるベガにつながっているのです。

賢治が緯度観測所を訪問したときのときの体験は『晴天恣意』という作品になりました。『晴天恣意』では五輪峠のあたりに冬には珍しい積乱雲が生じ、それが五輪塔のように見えることが書かれており、天気輪の柱という名前自体は五輪塔から発想されているのがわかります。五輪峠は物見山の北西約8km のところにあります。天気輪の柱をめぐり、水沢の緯度観測所、種山ヶ原、五輪峠は以下のようなトライアングルをつくっています。

20150413_03

天気輪の柱のモデルが何であるかについては、いろいろな説がありました。例えば、念仏車(石づくりの柱に鉄の輪をはめこんだもので地蔵車ともいう)、法華経の「見宝塔品」の宝塔賛美、大気中の光学現象である太陽柱(サンピラー)などです。それらの多くは「柱」という形状から類推されており、「私はこう思う」というだけで、合理的根拠は何もありません。地上と天頂をつなぐという天気輪の柱の根本概念にもとづきながら、そのモデルを論理的に考察することは行われてきませんでした。

ポストカードに写っている天頂儀が置かれている場所は、観測が行われた緯度観測所構内の天頂儀室です。現在は、水沢VERA観測所構内にある木村栄記念館に展示されています。
『銀河鉄道の夜』最大の謎:天気輪の柱とは何か?
Night On The Milky Way Train:Pillar of the Heaven

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にはさまざまな謎があり、この作品の大きな魅力にもなっています。私もそれらの謎にひかれ、長い時間をかけて調べることになりました。その結果をまとめたものが、青土社から出版した『[銀河鉄道の夜]フィールドノート』です。

『銀河鉄道の夜』の謎の何に興味を抱くかは、人によって違うと思いますが、この作品最大の謎の1つが「天気輪の柱とは何か?」であることに異論はないでしょう。昨日の朝日新聞に掲載された本書の書評でも、「天気輪の柱」が取り上げられていました。評者はおそらく、『銀河鉄道の夜』を相当読みこんでいる人なのでしょう。

「天気輪の柱」は、賢治の造語です。地上世界と銀河世界をつなぐ不思議な装置として作品に登場しますが、それがどんな形をしており、何を意味しているかは書かれていません。そのため、これまでいくつもの説が出されています。

天気輪の柱が何をモデルとしているかを考える鍵は、岩手県奥州市水沢区にある国立天文台水沢VLBI 観測所にあります。くわしい内容はここでは書きませんが、賢治は『銀河鉄道の夜』を書きはじめた年である1924年の3月に、この場所を訪れています。

水沢VLBI 観測所は当時「緯度観測所」とよばれていました。もともとは1899年に、地球の「極運動」(地球の自転の軸が周期的にわずかに乱れる現象)を調べるための「臨時緯度観測所」として設置されました。所長であった木村栄はこの観測で、極運動による緯度のわずかな変化をあらわす式には「z項」というものを加えなくてはならないことを発見しました。これは当時の日本の科学がほこるべき世界的業績でした。

奥州市水沢区は今も「z項の町」で、Z ホール、Z アリーナ、Z プラザ、Z バスなど、いたるところにZ の文字が目立ちます。
『銀河鉄道の夜』とは何か
Night On The Milky Way Train:Kenji Miwazawa’s universe

私は先日、青土社から『[銀河鉄道の夜]フィールドノート』を出版しました。本書を書く原点となったのは、雑誌『ユリイカ』1970年7月臨時増刊号「総特集宮澤賢治」に掲載された、入沢康夫氏と天沢退二郎氏による「徹底討議・銀河鉄道の夜とは何か」でした。

130615_01

年配の読者の方なら、自分が昔読んだ『銀河鉄道の夜』が、今と違っていたことをご存じだと思います。実は、私たちが今の形の『銀河鉄道の夜』を読むことができるようになったのは1970年代になってからのことなのです。『銀河鉄道の夜』は生前に出版されることがなかったため、作者の決定稿という形では残されませんでした。賢治は晩年まで原稿に推敲を加えていた上に、新たに書いた原稿にページ番号をふっていなかったなどのため、その後編集者は苦労をすることになりました。特に問題だったのは、結末として新たに書かれた原稿用紙5枚の位置でした。

当時出版されていた『銀河鉄道の夜』のテキストについて議論した「徹底討議・銀河鉄道の夜とは何か」がきっかけになって、両氏は賢治の弟である宮沢清六から依頼され、筑摩書房の新しい賢治全集のために、賢治の自筆原稿を調べる作業を行うことになりました。こうして、1972年から刊行がはじまった『校本宮沢賢治全集』において、賢治が晩年に行った黒インクによる大幅な修正がテキストに正しく反映され、賢治が最終的に意図した『銀河鉄道の夜』が姿を現したのです。以上の経緯は私の本で詳しく説明しています。

私にとって、「徹底討議・銀河鉄道の夜とは何か」は、『銀河鉄道の夜』に対して新しい興味をかきたてるものでした。それまで漫然と読んでいた文章、あるいは言葉の1つ1つに、深い意味がこめられているのではないかと考えはじめたのです。そうはいっても、当時は私はまだ学生で、実際にリサーチをはじめ、それが本になるにはずいぶん時間がかかってしまいました。
[銀河鉄道の夜]フィールド・ノート:賢治が見た宇宙
Night On The Milky Way Train:Kenji Miyazawa’s universe

『[銀河鉄道の夜]フィールド・ノート』が青土社から発売になりました。

130526_01

『銀河鉄道の夜』を読んでいくと、さまざまな謎に遭遇します。「天気輪の柱とは何か?」「ジョバンニが住んでいる町の地図はどうなっているのか?」「プリオシン海岸で大学士は何を掘っていたのか?」「ブルカニロ博士はどこから来たか?」「銀河鉄道はなぜ3時にサウザンクロスに着くのか?」。本書では、こうした多くの謎について、文学的解釈ではなく、資料や現地取材にもとづき、実証的に解き明かしています。『銀河鉄道の夜』の幻想世界が何をモデルに書かれているか、賢治は何を見ていたのかを調べてみることは、とてもエキサイティングな仕事でした。

実は、10年くらい前には、ほとんど調査や取材が終わり、素稿は出来上がっていたのですが、長い間、そのままにしていました。2011年3月11日に東北地方を大津波が襲ったことが、本書を出版しようというきっかけとなりました。よく知られているように、賢治は明治の三陸海岸大津波の年(1896年)に生まれ、昭和の三陸海岸大津波の年(1933年)に亡くなりました。「賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである」と弟の宮沢清六は「兄賢治の生涯」で書いています。

東日本大震災以後、賢治の作品が脚光をあびています。本書を読んでから、『銀河鉄道の夜』を読み返していただければ、賢治の世界の魅力を改めて知っていただけると思います。
アニメ映画『グスコーブドリの伝記』:期待外れの理由
Guskoh Budori:The movie disappointed

予告編はよくできていたのですが、いざ観てみると、がっかりでした。

冒頭の教室の場面で先生が詩「雨ニモマケズ」を朗読したとき、いやな予感がしたのですが、その後、ブドリが赤ひげに別れを告げる場面までは、賢治の世界が見事な映像で描かれていたと思います。

しかし、イーハトーブに向かう夜汽車でブドリが見る夢の中で、一瞬「銀河ステーション」という駅構内放送が流れ、詩「青森挽歌」の一節が読まれるところから、物語は暴走をはじめます。『グスコーブドリの伝記』の初期形である『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の「ばけもの」の世界があらわれ(おそらく映画を観た人の多くは、なぜ、たくさんの「ばけもの」が登場するのか理解できなかったでしょう)、原作にはない「コトリ」(「子捕り」のことか?)というキャラクターに、物語の行方はゆだねられてしまいます。

それでも、イーハトーブ火山局でのブドリの仕事ぶりはよく描かれていました。私は、飛行船で肥料をまく場面がどのように表現されるのかを楽しみにしていたのですが、驚いたことに、この重要な場面はスキップされ、ブドリは妹のネリに再会することもできません。結局、何が起こったのかがわからないまま、ふたたび「雨ニモマケズ」が朗読され、映画は感動も余韻もない終わりを迎えるのです。

このアニメ映画は、賢治の書いた『グスコーブドリの伝記』とは無縁の物語になってしまいました。映画パンフレットを読んでみると、その原因は、杉井ギサブローの脚本・監督にあるようです。杉井は、賢治の作品は「読み手に解釈を委ねている」とし(私はこの意見に賛成しませんが)、『グスコーブドリの伝記』を「この時代に僕がどのように読んだのかを映画にしなくてはいけないと思いました」と語っています。その「どのように読んだのか」が、見当違いだったわけです。

賢治は『グスコーブドリの伝記』で、冷害や干ばつ、さらには火山噴火などの自然災害に苦しむ人々を、科学の力で救おうとする夢を描きました。それは彼自身が行った教育活動や肥料設計相談、羅須地人協会での実践、さらには東北砕石工場の技師としての営業活動に重なるものです。ところが、杉井は「大自然の力を前にして、その力を科学で抑えたり変えたりすることは難しい」というのです。それでは、東北で被災した方々に、さらには今後の大災害で被災するかもしれない人々に、私たちは何ができるのでしょうか? 「唯一できることは、多くのひとを不幸にしたくないと想う心をひとつのエネルギーにして、自然に対していくしかない」と、杉井はいうのです。「多くのひとを救いたい」という思いだけで、ものごとが解決すれば、こんなに簡単なことはありませんが、それは不可能です。自然のしくみを理解し、その知識を人々の生活に役立てていくのが、科学の役割です。この科学の営みは、杉井のいう「自然を科学の力でねじ伏せよう」とすることではまったくありません。科学者は自然に対して謙虚です。

映画では科学の力が確信犯的に無視され、問題解決のためにコトリというキャラクターがつくりだされました。杉井はアニメ映画『銀河鉄道の夜』でも、原作にない盲目の無線技師を登場させました。この無線技師はストーリーの展開に何の役割も果たさなかったので、ある意味、許されました。しかし、今回のコトリはいけません。

杉井は、ブドリの人生を「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と書かれている人物像にダブらせる意図をもっていたようです。しかし、これは大いなる誤りです。「雨ニモマケズ」は、賢治が目指そうとした道を逆説で示したものです。「そういう人になれれば、いいことであるかもしれないが、私はそうはなれない。だから自分が選んだ修羅の道を行く」というのが、この詩の本意です。賢治は丈夫な体をもっていませんでした。彼の体は若いときから結核に冒されていたのです。賢治は干ばつの夏に涙を流すだけでいたことはありませんでしたし、冷害の夏を前にしておろおろ歩くつもりはありませんでした。農芸化学を学び、その知識を農民のために生かすことに身を砕きました。

ブドリの妹ネリに、賢治の妹トシの死を重ねるのも問題です。初期形の『ネネムの伝記』にも、ネネムの妹としてマミミが登場します。ネネムとマミミは賢治とトシと考えていいのですが、このとき、トシは存命でした。確かに、『青森挽歌』が書かれた1923年には、賢治にとってトシの死をどう受け止めるかが大きな問題でした。しかし、1926年ごろとされる『銀河鉄道の夜』第三次稿で、賢治が「みんながカムパネルラだ」と書いたとき、賢治の心の中でこの問題に決着がついたことは、賢治を少し研究した人であれば、誰でも知っていることでしょう。1932年に発表された『グスコーブリの伝記』で、トシの死をもちだすのは間違いです。

杉井は、ブドリの最後を具体的に描くことは、自己犠牲を礼賛することになりかねないと考えたようです。実際、そうした批判が過去にあったようです。しかし、そのような心配は不要です。『グスコーブリの伝記』とは、その題名のとおり、ブドリという人間の一生を描いた「伝記」であり、彼の最後がどうであったかを原作に忠実に描かなければ、映画化した意味はありません。その最後が、エンターテイメントの世界で許されるかどうかという点についていうなら、映画『アルマゲドン』の中でブルース・ウィリスが演じた役を考えてみればいいでしょう。それはハリウッドでもOK なのです。

この映画には、天沢退二郎氏が監修者として名を連ねています。おそらく、天沢氏が脚本を読んだときには、映画の製作はわずかな変更もできない段階にきていたのでしょう。
グスコーブドリの伝記(5):オリザの系譜
Kenji Miyazawa:Genealogy of Oryza

『グスコーブドリの伝記』に出てくる「オリザ」は水稲、「沼ばたけ」は水田のことです。オリザはイネの学名 Oryza sativa からとられています。

岩手県の稲作の歴史を調べてみると、明治中期まで栽培されていたイネの品種はわずかに2種だったため、冷害などによる被害を受けやすかったとのことです。以後、天候不順などによる被害のリスクを少なくするため、6品種に増えました。このころのイネの品種は、もともとあった品種の中からすぐれたものを選ぶ「分離育種法」という方法にもとづいて行われていました。この方法でつくられた品種は、その特徴にばらつきがでるという問題がありました。

日本で、本格的なイネの品種改良がはじまったのは、明治36年とされています。当時、農事試験場にいた加藤茂苞によって、すぐれたイネ同士を交配させる「交配育種法」が確立されたのです。この方法を使ってつくられたイネの品種の第1号が、大正2年に、農事試験場陸羽支場(現在の農研機構東北農業研究センター)でつくられた「陸羽132号」でした。陸羽132号は、寒さに強く、品質が良い「亀の尾4号」と、病気に強い「陸羽20号」を交配してつくられました。

冷害に強い陸羽132号は東北地方で広く栽培されるようになり、反あたりの収穫量も増加しました。岩手県の品種別作付面積をみると、昭和3年から30年まで、陸羽132号が1位で、昭和14年にはなんと全作付面積の72%で陸羽132号が栽培されていました。

陸羽132号は賢治の詩にも登場します。『春と修羅 第二集』の「塩水撰・浸種」は、陸羽132号の塩水選後の水洗いを題材にしたものです。

塩水撰が済んでもういちど水を張る
陸羽一三二号
これを最後に水を切れば
頴果の尖が赤褐色で
うるうるとして水にぬれ
一つぶづつが苔か何かの花のやう
かすかにりんごのにほいもする
笊に顔を寄せて見れば
もう水も切れ俵にうつす
日ざしの中の一三二号

塩水選とは、塩水の中に籾を浸し、塩水に浮いた不良の籾を取り除く作業をいいます。中身の充実した籾を選ぶために行います。塩水選が終わった後は、十分に水で洗わなければいけません。

また、『春と修羅 第三集』の「(あすこの田はねえ)」という詩は、稲作の技術を題材にしたもので、以下のような個所があります。

君が自分でかんがへた
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った

賢治は農民のために、いつも肥料設計相談に乗っていました。水田に入れる肥料の種類と量を決めるには、その水田の場所や土壌、水質など細かい情報が必要です、そのため賢治は、農民が相談に来る前にあらかじめ空欄に記入できる質問票のようなものをつくっていました。その中に、「二十、今年こゝへは陸羽一三二号、を植ゑる」という、賢治が陸羽132号を農民に推奨していたともみられる個所があります。

賢治がどこまで積極的に陸羽132号を推奨していたか、はっきりした資料はありませんが、岩手県では、陸羽132号は賢治の推奨した米とされています。現在、岩手県で栽培されている主な品種は、陸羽132号のひ孫にあたる「ひとめぼれ」や「あきたこまち」などですが、一部の農家では今でも陸羽132号が栽培されているようです。

詩「それでは計算いたしませう」は、賢治の肥料設計相談そのものを詩にしたものです。「総反別はどれだけですか」「いつでも乾田ですか湿田ですか」「しろつめくさが生えますか」「土はどういふふうですか」などと具体的に聞いていき、その水田に最適な肥料を計算するのですが、その農民がどのような収穫を望むかで、肥料の量はちがってきます。

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは
三十年に一度のやうな悪天候の来たときは
藁だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか

町に出てきたブドリを雇うことになる赤ひげの男は、「何でもかんでも、おれは山師張るときめた。」といって、水田に大量の肥料を投入しましたが、イネは病気にやられてしまいました。

「イーハトーブの大百姓」だった赤ひげの水田は、たびたびの冷害と干ばつのために、昔の3分の1になってしまい、次の年の肥料を買うお金もなくなってしまいます。こうした描写には、賢治の生きた時代の東北の農家の実情が反映されています。
グスコーブドリの伝記(4):潮汐発電所
Kenji Miyazawa:Tidal power station

クーボー博士は「もうどうしても来年は潮汐発電所を全部作ってしまはなければならない」といいます。そして4年後には、イーハトーブの海岸には200もの潮汐発電所が建設されました。潮汐発電とは、潮の満ち引きによる潮位の差を利用した発電方法です。満ち潮のときに海水を貯めておき、引き潮のときに放水し、タービンをまわします。

世界初の潮汐発電所はフランス、ブルターニュのランス川河口に建設されたランス潮汐発電所で、完成したのは1966年のことでした。

120701_01

しかし、それよりずっと前、やはりブルターニュのアベール・ウラコ川河口に潮汐発電所をつくるという計画があったのです。この世界初の本格的な潮汐発電所の計画がスタートしたのは1925年のことでした。1930年に、この計画は資金難のために中止されてしまいましたが、潮汐発電所の実現に先駆的な役割をはたしました。また、ランス潮汐発電所も、最初に検討されたのは1921年のことだったといわれています。

このように、賢治が『グスコーブドリの伝記』を書きはじめたころには、潮汐発電は新しい発電方式として大いに注目されており、日本にもその情報が入ってきたのでしょう。限りのない海のエネルギーを利用する潮汐発電は、賢治にとって魅力的な未来のエネルギーだったにちがいありません。
グスコーブドリの伝記(3):イーハトーブ火山局
Kenji Miyazawa:Volcano observatory

クーボー博士の紹介でブドリが働くことになったのが、イーハトーブ火山局でした。火山局の中には壁一面にイーハトーブのジオラマがこしらえてあり、火山の場所には赤や橙や黄色のライトがともっていました。イーハトーブには300もの火山があって、それらの火山のデータはみな、この火山局に集まってくるのです。

イーハトーブ火山局のモデルは、盛岡測候所、現在の盛岡地方気象台です。

120630_01

盛岡測候所は大正12年9月1日に創設されました。昭和2年7月中旬前後に使用されたと推定されている賢治の『方眼野手帳』には、その年の冷害を心配する記述がみられます。冷夏を予測して対策を立てるためには、正確な気象データが必要と考えた賢治は、7月18日に盛岡測候所を訪問したのでした。賢治はその後も何度か測候所を訪れたとみられます。盛岡測候所の主たる業務は気象観測ですが、火山の監視も業務に含まれていました。もちろん現在の盛岡地方気象台の業務にも「岩手山、八幡平、秋田駒ヶ岳、栗駒山の火山情報の伝達」が含まれています。

ブドリたちが噴火から町を守ったサンムトリ火山の名は、ギリシアのサントリーニ島からとられていますが、火山噴火の様子などは、桜島の大正噴火が参考にされているようです。大正2年、桜島は大噴火を起こしました。噴火は西側と東側の2個所で起こり、大量の火山灰や軽石が噴出しました。溶岩の流れは海にまで達しました。

120630_02

溶岩は西側では鳥島を埋め、東側では幅400メートルあった大隅半島との間の瀬戸海峡を埋めました。桜島が大隅半島と陸続きになったのは、このときです。桜島は昔から噴火をくり返してきました。下は桜島の噴火の歴史を示す地質図で、左下の薄紫の部分が大正の噴火で鳥島を埋めた溶岩、右の薄紫および紫色の部分が瀬戸海峡を埋めた溶岩です。

120630_03

桜島の噴火は、賢治が16歳のときのことでした。その後、賢治が入学した岩手高等農林学校で指導教官だった関豊太郎の研究室に鹿児島出身の学生がおり、賢治は噴火の様子をくわしく知ることができたといわれています。

物語の最後に登場するカルボナード島の名は、カーボネート(炭酸塩)からとられ、炭酸ガスを連想させる名前になっています。賢治は大気中の二酸化炭素濃度が上昇すれば、温室効果で地球が暖かくなることを知っていました。賢治が地球規模の気象現象についても深い知識をもっていたことがわかります。
グスコーブドリの伝記(2):飛行船の夢
Kenji Miyazawa:Lighter than air

『グスコーブドリの伝記』には、賢治の他の作品には見られないメカがいろいろ登場します。中でも、クーボー博士が乗りまわす「玩具のやうな小さな飛行船」は、とても魅力的です。このような飛行船を考えついた賢治の想像力には、感嘆するしかありません。

クーボー博士が乗るような飛行船が実際につくられたことはありませんが、作品の世界では19世紀末に登場しています。下は、フランスのアルベール・ロビダが1890年に発表した"La vie électrique" に載っている、彼自身が描いた挿絵です。「空中タクシー」とでもいえるものです。

120629_01

"La vie électrique" は、20世紀の電化生活がテーマで、電気を利用するさまざまなアイデアが登場し、挿絵を見ているだけで楽しい作品です。

120629_02

ロビダの作品の中には、フランスで発表後、日本ですぐに翻訳されて、出版されたものがあります。明治20年(1887)には春陽堂から『世界未来記 社会進化』が、明治21年(1888)には岡島宝文館から『第二十世紀 世界進歩』全3編が刊行されました。どちらも、ロビダが予想する未来世界を紹介したものです。

『第二十世紀 世界進歩』第一編には、以下のようなロビダによる挿絵が載っています。

120629_03

これは、「空中ホテル」とでもいうような施設で、そのまわりを小型の飛行船(翻訳では「空船」と紹介されています)が飛行しています。また、下の絵は橋梁の上につくられた建物で、ここでもたくさんの空船が飛行しています。

下の絵は第二編に載っている小型飛行船です。

120629_04

賢治はこうした作品にも何らかの形で触れて、想像力を刺激されていたかもしれません。

『グスコーブドリの伝記』では、空中から肥料をまくためにも、飛行船が使われます。おそらくこの飛行船は、より大型のものでしょう。ブドリが山の頂上の小屋で見ていると、飛行船が雲の上を飛び、「うす白く光る大きな網」をかけていきます。これが空から窒素肥料をまくためのしかけなのです。

気球と異なり、エンジンで自由に飛行することが可能な飛行船は、フランスのアンリ・ジファールの開発したものが最初とされ、1852年に飛行が行われました。ガスをつめる気嚢に骨格をもつ硬式飛行船は、ドイツのツェッペリン伯爵によって1900年に初飛行が行われ、飛行船が軍事偵察や旅客輸送など実用に使われる時代が到来しました。下は、1910年に登場したツェッペリン、ドイチュラント号(LZ7)で、ドイツ国内での旅客輸送に用いられました。全長145メートルで、120馬力のダイムラーエンジン3基で推進しました。最高速度は時速60キロメートルでした。1900年代には、フランスやイギリスでも、主に軍事目的で飛行船が開発されています。

120629_05

日本では、明治42年(1909)にアメリカのハミルトンが上野不忍池付近でデモンストレーション飛行を行いました。これを知った山田猪三郎は山田式飛行船(軟式飛行船)を開発し、翌年に飛行に成功しました。また、陸軍の徳川好敏大尉らは、明治44年(1911)にイ号飛行船を建造し、所沢飛行場で飛行を行いました。気球部分の製作は山田猪三郎が担当しました。徳川大尉らはその翌年にはドイツから、パーセヴァル飛行船を購入しています。

こうした飛行船実用化の動きを、賢治は当然知っていたでしょう。賢治は飛行船の可能性に気づき、窒素肥料を空から散布する手段に選んだのです。
グスコーブドリの伝記(1):東北地方を襲った飢饉
Kenji Miyazawa:Famines in Tohoku

『グスコーブドリの伝記』は、冷害や干ばつに苦しむ東北地方の農民を救うためにはどうしたらいいのかを、賢治がいつも考えていたことを知る上で、非常に重要な作品です。

『グスコーブドリの伝記』の先駆形である『グスコンブドリの伝記』には、フウフィーボー大博士がブドリに、農民が何に困っているかを聞く場面がありました。この個所はそのまま、当時の農業の窮状を語る場面になっています。
「沼ばたけではどういふことがさしあたり一番必要なことなのか。」
「いちばんつらいのは夏の寒さでした。そのために幾万の人が餓ゑ幾万のこどもが孤児になったかわかりません。」
「次はどういふことなのか。」
「次はひでりで雨の降らないことです。幾万の百姓たちがその為に土地をなくしたり馬を売ったりいたしました。」
「次はどういふことなのか。」
「次はこやしのないことです。百姓たちはもう遠くから肥料を買ふだけ力はないのです。」

『グスコーブドリの伝記』では、この3つの問題は、空中から窒素肥料をまき、人工降雨を行い、火山からの二酸化炭素で地球を暖めることで解決されます。科学の力を使って農民の生活をよくすることが、賢治の夢だったのでしょう。

賢治がこのように考えるようになった背景には、賢治自身も体験した東北地方のきびしい凶作の歴史がありました。『グスコーブドリの伝記』のはじまりで、ブドリが12歳のときに2年つづきの冷害が襲ってきます。そして2年目の秋になると、「たうとうほんたうの饑饉になってしまひました」。これはおそらく、明治38〜39年の冷害と、それにともなう飢饉が賢治の頭の中にあったのではないかと思われます。ブドリの両親は町に行って、わずかばかりのきびの粒などを手に入れてきますが、ときには何も持たずに帰ってくることもありました。実は、このなにげなく読んでしまいそうな個所には、賢治にとって非常に重い意味が含まれています。というのも、生活に困った農民がわずかな金銭を手に入れるために訪れる質店を、賢治の実家はいとなんでいたからです。

賢治は大正4年に、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に入学しました。明治38〜39年や大正2年の凶作のときの農民たちの悲惨な状況をよく知っていたことが、賢治が農芸化学を志望したきっかけの1つだったのではないかと、私は考えています。

『グスコーブドリの伝記』は昭和6年に発表されました。昭和5年の凶作の翌年のことです。
三陸海岸大津波と宮沢賢治
もうすぐ3月11日がやってきます。東北地方の1日も早い復興を願わずにはいられません。

東北地方を襲った津波はきわめて巨大なものでしたが、三陸地方は過去にもくり返し大きな津波の被害を受けています。860年、1611年、1616年、1676年、1696年、1835年、1856年、1896年、1933年などの大津波が記録に残っています。また1960年にははるかチリからやってきた津波が被害をもたらしました。このうち、1896年(明治29年)は宮沢賢治の生年に、1933年(昭和8年)は没年にあたっています。

賢治の弟である宮沢清六氏は『兄賢治の生涯』で、「賢治の生まれた明治二十九年という年は、東北地方に種々の天災の多い年であった」と書いています。この年、6月15日には三陸海岸に大津波が押し寄せました。7月と9月には北上川が増水、また、賢治が生まれて5日目の8月31日には花巻付近で大地震が発生しました。凶作や自然災害に苦しめられる東北の人々のことをいつも考えていた賢治でしたが、その賢治の生涯が「容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった」のです。そして昭和8年、「三月三日には三陸沿岸に大津波が襲来し、二十三メートルもある大波で死傷者三千を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということにも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗合を感ずるのである」。

明治29年の三陸海岸大津波は6月15日午後8時2分に発生したマグニチュード8.5の大地震によってもたらされました。震源は岩手県釜石沖約200キロメートルの場所です。地震発生から約20分後に沿岸の潮が大きく引き、その後、巨大津波が襲ってきました。気仙郡綾里で38.2メートル、同郡吉浜で24.4メートル、田老で14.6メートルなどの波高が記録されています。この津波の死者・行方不明者は2万2000人以上で、とくに田老の集落では1859名が死亡し、わずかに36名が生存したのみといわれています。

1986

昭和8年の三陸海岸大津波は3月3日の午前2時33分に発生しました。マグニチュードは8.1、震源は明治の三陸地震とほぼ同じ場所でした。海水がはげしく引いた後に、巨大津波が襲ってきました。波高は綾里湾で28.7メートルに達しました。この津波の死者・行方不明者は3000人を超えました。

1933

東北地方は昔から冷害による凶作に見舞われてきました。賢治が生きていた時代にとくにひどい凶作となった年は、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)〜1906年(明治39年)、1913年(大正2年)、1931年(昭和6年)です。とくに明治35年と大正2年の凶作は、天保飢饉以来の規模とされています。明治の三陸大津波と昭和の三陸大津波、2つの大津波の間を生き、苦しむ農民の姿を見続けてきた賢治の心の中は、『銀河鉄道の夜』のジョバンニと同じように、「皆の幸せ」を求める気持ちでいっぱいだったでしょう。賢治は1915年(大正4年)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に入学しました。凶作のときの農民たちの悲惨な状況をよく知っていたことが、賢治が農芸化学を志望したきっかけの1つだったのではないでしょうか。

『グスコーブドリの伝記』は昭和6年の凶作の翌年に発表されました。この作品の中では、ブドリが12歳のときに冷害が襲ってきます。「五月になってもたびたび霙がぐしやぐしや降り、七月の末になっても一向に暑さが来ないために去年撒いた麦も粒の入らない白い穂しかできず、大抵の果物も、花が咲いただけで落ちてしまつたのです」と、冷害の様子が書かれています。次の年も同じように冷夏になりました。「そして秋になると、たうとうほんたうの飢饉になってしまひました」。おそらく、明治38〜39年の凶作が賢治の頭の中にあったのではないかと思われます。大人になったブドリは自分の命を犠牲にして火山を噴火させ、火山からの二酸化炭素で地球を暖めることで冷害を防ぎます。

賢治は実生活においても農民の窮状を救おうと羅須地人協会の活動や農業技術の指導、肥料設計、炭酸石灰肥料の販売などを行いましたが、病に倒れました。

1933年は大豊作で、9月17日から3日間、花巻の鳥谷ヶ崎神社の祭礼がにぎやかに行われました。ずっと臥せっていた賢治は19日の夜、自宅の門の前に出て神輿を迎えました。21日、賢治は永眠しました。賢治は最後に2首を残しています。

「方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる」
稗貫のあたりの稲は熟れて、お祭りの3日間、空は晴れ渡った。
「病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし」
病気でもうすぐくちてしまう命であるが、稲の実りのために棄てるのであればうれしいことである。
樺太1923年:大泊から栄浜へ
札幌での仕事の合間に、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)にある樺太関係資料館を訪ねてみました。

Sakhalin

ここには間宮林蔵による探検にはじまり、明治・大正・昭和初期の開拓の時代から第二次世界大戦時のソ連軍侵攻による悲惨な出来事やその後の引揚げ、そして近年のサハリン州との交流まで、樺太の歴史を通じたさまざまな資料が展示されています。

Sakhalin

上の写真は館内の展示風景で、奥に立っているのが間宮林蔵、手前にあるのは南樺太のレリーフマップです。宮沢賢治は1923年(大正12)にこの地を訪ねました。大泊(コルサコフ)から当時の終着駅である栄浜(スタロドゥプスコエ)にまで至っています。賢治が乗った鉄道路線を、レリーフマップでたどることができました。

賢治の樺太への旅は教え子の就職を依頼することが目的でしたが、『銀河鉄道の夜』を書くきっかけともなりました。
ペルセウス座流星群:鎮魂の流星
8月12日と13日の夜にはペルセウス座流星群が極大になります。下の写真はESO(ヨーロッパ南天天文台)のVLT とペルセウス座流星群の流星です。

Perseids_VLT

今年は満月の時期にあたるため、残念ながら観測条件はあまりよくありません。ペルセウス座流星群は周期約130年のスイフト・タットル彗星のちりがもたらすものです。

東北地方の方々にとって、今年のペルセウス座流星群は鎮魂の流星雨になるでしょうか。

星が好きだった宮沢賢治も、子供のころからペルセウス座流星群を見ていたにちがいありません。賢治が旧制盛岡中学の生徒だった1912年の『天文月報』11月号には「ペルセウス座流星群につきて」という記事が載っており、1901年からずっと多くの流星が観測されてきたものの、数年前から観測される流星の数が減っていることが報告されています。また、1919年(東京で発病した妹トシを花巻に連れて帰ってきた年です)1月号には「大正七年八月流星の観測」という1918年のペルセウス座流星群の観測報告が載っており、当時すでによく知られた流星群であったようです。
サハリン紀行
藤原浩著『宮澤賢治とサハリン』(東洋書店)を読みました。大正12年(1923)の宮澤賢治のサハリンへの旅を、当時の時刻表や、実際に現地を旅した経験などをもとに検証したものです。賢治のサハリン紀行についての研究では、すでに萩原昌好氏の『宮澤賢治「銀河鉄道」への旅』(河出書房新社)がありますが、鉄道・旅行ライターとして活動している藤原氏が述べている賢治の行程には、藤原氏の本と異なるところもあり、興味がもたれます。

『銀河鉄道の夜』の成立にあたって、サハリンへの旅はきわめて重要な意味をもっています。しかしながら、『青森挽歌』から『オホーツク挽歌』にいたる賢治の詩作と、実際の行程との関係についての情報は多くはありません。その意味で萩原氏や藤原氏の本は数少ない労作といえるでしょう。とくに藤原氏の本には当時の時刻表が掲載されており、とても役に立ちます。
久しぶりに花巻を訪ねる(2)
今日は、釜石線(愛称は銀河ドリームライン釜石線)で遠野まで行ってきました。「銀河鉄道」のモデルとなった岩手軽便鉄道は、大正4年に花巻〜仙人峠間が開通しました。その後、昭和11年に国有化され、国鉄釜石線となりました。かつての軽便鉄道の路線を、遠野まで往復してみようというわけです。

ただし、軽便鉄道の花巻〜似内間は、現在の釜石線の花巻〜似内間とはルートが異なっていました。当時は、国鉄花巻駅前にあった軽便鉄道の花巻駅から、イギリス海岸の近くを通って似内に至っていました。昭和19年に国鉄花巻駅に乗り入れることになり、これにともなってルート変更が行われたのです。

朝9時17分発の快速「はまゆり1号」に乗り、遠野には10時9分に着きました。遠野を11時12分発の快速「はまゆり4号」で花巻にとんぼ帰りをしたので、遠野には1時間ほどしかいませんでしたが、遠野にもまた魅力的な世界があります。

遠野の絵葉書

銀河ドリームライン釜石線の各駅にはエスペラントで愛称がつけられています。遠野はフォルクローロ(Folkloro)で、民話という意味です。

遠野駅

賢治には岩手軽便鉄道を題材にした「岩手軽便鉄道の一月」と「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」という詩があります。また、「冬の銀河ステーション」では「銀河軽便鉄道」として出てきます。窓の外を眺め、賢治が見た風景を想像しながら、花巻に戻りました。
久しぶりに花巻を訪ねる(1)
久しぶりに宮沢賢治の故郷、花巻に来ています。これまでも何度か花巻を訪れていますが、今回来たのは、『銀河鉄道の夜』に書かれている内容について、いくつか確かめたいことがあったからです。とても細かいことばかりなのですが、賢治が死ぬまで推敲を重ね、未完に終わった『銀河鉄道の夜』を読み解くには、そのようなディテールが重要なのです。

まず、宮沢賢治記念館の展示を久しぶりに見てから、イーハトーブセンターを訪問し、資料を購入しました。その後の、少し早い昼食は山猫軒です。

山猫軒

『銀河鉄道の夜』では、星は「空の三角標」として表現されています。三角標とは測量のために三角点の上に組むやぐらをいいます。宮沢賢治記念館のすぐそばの、あまり目立たない場所に、胡四王山の三角点があります。この三角点は、明治40年、すなわち賢治が11歳のころに設置され、測量作業が行われました。賢治は当時、ここの三角標を見たかもしれません。

胡四王山三角点

午後は、賢治の生家があった豊沢町に行ってみました。当然のことですが、街並みは大正時代とまったく変わってしまいました。しかし、高い建物がほとんどない静かな通りは、当時のたたずまいを今も伝えている気がします。

▲PAGE TOP