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怪談とKWAIDAN
先日、松江市の小泉八雲記念館に行ってきました。

Yakumo_Koizumi

企画展示として「小泉八雲のKWAIDAN 展」が行われており、海外で出版された『怪談』や、小林正樹監督の映画『怪談』(1965年)のスチール写真や海外で公開されたときのポスター、フライヤーなどが展示されていました。

よく知られている「耳なし芳一」「雪女」などを収めた『怪談』、「和解」などを収めた『影』、そして『骨董』などの作品には、『今昔物語』、『雨月物語』、『日本霊異記』などからの再話や、古くからの伝承にもとづいた話が収められ、海外で広く読まれています。欧米人のために英語で書かれた作品を私たちは日本語で読んでいるわけですが、その背後に、日本の伝承文化、日本人の自然観や情感などに対する彼の深い理解が感じられます。

小泉八雲すなわちラフカディオ・ハーンの父親はアイルランド人、母親はギリシア人です。ハーンはギリシアで生まれましたが、2歳からは父の実家のあるアイルランド、ダブリンで育ちました。幼いころ、ゲール語(古アイルランド語)を話す子守からたくさんの妖精譚を聞いたそうです。また、彼が子供の頃にしばしば訪れた西アイルランドのコングはケルト文明以前のストーンサークルやその他の遺跡が残る場所です。少年時代にギリシア神話の本に熱中したという話もあります。そのような体験があったからなのか、ジャーナリストとして活躍するようになってからも、彼は世界各国の奇怪な話や不思議な話にずっと心をひかれていたようです。

シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニークなどで、いくつもの民族文化にふれて日本にやってきたハーンにとって、日本で聞かされた怪談は、彼の創作意欲をいたく刺激するとともに、日本文化に対する深い共感をよび起こしたにちがいありません。それがゆえに、彼の作品は私たちにとっても改めて日本文化を考えさせるものになっているのです。
サン=テグジュペリ:キャップ・ジュビー
箱根の「星の王子さまミュージアム」に行ってきました。昨年、リニューアルが行われ、サン=テグジュペリとはあまり関係のない花壇ができていましたが、これも営業のためなのでしょう。展示コーナーは以前のままでした。

展示コーナーで足を止めてしまったのは、やはりキャップ・ジュビー(現在のモロッコ、タルファヤ)滞在時の部屋でした。1927年10月、ラテコエール社(後のアエロポスタル社)のパイロットだったサン=テグジュペリは、トゥールーズからダカールへ伸びる郵便機路線の中継基地キャップ・ジュビーに飛行場主任として赴任しました。キャップ・ジュビーは当時スペイン領で、サハラ砂漠と大西洋にはさまれた地の果てのような場所でした。小さな港とスペイン軍の砦がある以外は、何もありませんでした。

1928年末に帰国するまでの13か月間、サン=テグジュペリはこの中継基地の粗末なバラックで暮らしました。展示コーナーにあるのは、このときの彼の部屋で、ドラム管2つに板を渡しただけの机などが再現されていました。

capjuby

キャップ・ジュビーでの体験は、彼の文学の原点となりました。おそらく、彼が生涯でもっとも充実した生活を送ることができたのは、このキャップ・ジュビーの時代と、アエロポスタル社の現地法人の支配人として1929年10月にブエノスアイレスに赴任してから、1931年2月に帰国するまでの13か月間です。キャップ・ジュビー時代に『南方郵便機』が、ブエノスアイレス時代に『夜間飛行』が生まれています。

彼にとって、空を飛ぶということは、何ものかに対する責任を果たすという崇高な意味をもっていたようです。その何かとは、アエロポスタル時代は郵便を運ぶこと、そして戦時中はフランスのために危険な偵察飛行を行うことでした。1944年7月31日、彼はコルシカ島の基地から偵察飛行に飛び立ちますが、消息不明となりました。

exupery

キャップ・ジュビーの部屋を見て私が思い出したのは、彼の遺品でした。コルシカ島の基地に残されていたのは、執筆中だった『城砦』の原稿、大量のノート、書類の他には、「ホチキス一つ、壊れたパイプ一つ、アメリカ軍企画の制服一着、靴七足、パジャマ四着、海水着一着、ハンカチ十四枚、水彩セット一組、トランプ一組、洗面道具入れ一つ、電気カミソリ二つ、様々な国の硬貨少額、絹のバスローブ一着」でした(『サン=テグジュペリの生涯』、ステイシー・シフ)。貴族の家に生まれ、少年のころは大きな館で太陽王と呼ばれて自由気ままな生活をしていたサン=テグジュペリは、生涯を通じて蓄財や、ものを所有することには無関心でした。根っからの精神の貴族だったのです。

『星の王子さま』が書かれたのは、死の2年前の1942年でした。体調の異変に気付いていた彼は、すでにこのころ死を予感していたかもしれません。哲学の書ともいえる『城砦』を執筆する一方で、一種の気分転換で書かれたこの作品では、物質ではなく、精神の在り方にこそ最高の価値を置く彼の考えが、キツネの「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」という言葉として語られます。このキツネは、キャップ・ジュビー時代に彼が「飼いならした」キツネです。

作家としての名声を得たサン=テグジュペリは、パリやニューヨークでは多くの友人や知人に囲まれ、彼自身もそうした交流を楽しんでいましたが、この繊細でさびしがり屋の作家には、カフェの片隅で一人原稿を書く姿が一番似合っていたように思えます。
チェザーレ・パヴェーゼ:月と篝火
一昨年から刊行されていた岩波書店の『パヴェーゼ文学集成』が完結しました。『美しい夏』『丘の上の悪魔』『孤独な女たちと』が収録された第2巻を最後にもってくるとは、心憎い配本です。1969年に刊行が始まった晶文社のパヴェーゼ全集(最後までは刊行されなかった)で今、私の書棚にあるのは第5巻の『青春の絆』だけ、1976年に刊行された集英社の『世界の文学』のパヴェーゼの巻は行方不明という状態で、長い間、彼の世界に触れる機会はありませんでした。今回の『文学集成』は若い時からパヴェーゼの作品を翻訳してきた河島英昭氏の仕事の集大成であり、刊行が始まったとき、そろそろ、もう一度パヴェーゼを読んでみようかという気になっていたのです。

パヴェーゼ(1908〜1950)はイタリア文学の中で高い評価を得ているものの、あまり日本では知られていません。岩波文庫で刊行された『故郷』(2003年)と『美しい夏』(2006年)で初めて知った方も多いのではないでしょうか。彼の作品は第二次世界大戦前後のイタリアの激動の時代下で書かれましたが、現代においても私たちに生きるとは何かを問いかけてきます。

7年ほど前、ミラノでのことです。何を買うという目的もなく書店に入った私は、突然、パヴェーゼを思い出しました。
「パヴェーゼの本はどこにありますか?」
「それって、どこの国の作家でしたっけ」
「君の国の作家じゃないか」
「ああ、そうでした」
イタリアでも、パヴェーゼは若い人にはあまり読まれていないのかもしれません。とにかく、そんな会話の末にエイナウディ社刊『月と篝火』を買って帰りました。

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『月と篝火』は、彼の最後の長編小説です。冒頭の「ここに帰ってきたのには、わけがある。ぼくはここで生まれたのではない、それはほとんど確かだ」から、結末の「去年までは、まだそこに残っていた」というヌートの言葉まで、この作品には、彼のそれまでの作品の核心が結晶のようにちりばめられている気がします。この神話的世界を味わうためには、やはり最初に読んで、最後にもう一度読まなくてはいけないでしょう。

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