最近のエントリー
カテゴリー
過去のエントリー
カレンダー
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
ブログ内を検索


PROFILE
モバイル
OTHERS
知の灯台:アレクサンドリア図書館
Lighthouse of Knowledge:Bibliotheca Alexandrina

エジプトのアレクサンドリア図書館では、1月3日から3日間、「過激主義と闘うアラブの包括的戦略に向けて」と題した会議が開かれます。

20150103_02

この会議は、エジプト大統領アブドルファッターフ・アッ=シーシーの後援のもと、アラブ連盟の事務総長、エジプト政府の外務大臣、文化大臣も参加し、200人のエジプトとアラブ諸国の知識人やメディア関係者、イスラム教とキリスト教の指導者などがさまざまな議論を展開する予定です。特に注目すべきテーマは文化や宗教の多様性、言論・表現の自由です。

1月12日には、グローブ座によるハムレットの公演が行われます。

20150103_01

ロンドンのグローブ座はシェイクスピア生誕450年にあたる2014年に、ハムレットを世界中の国で公演するツアーをスタートさせました。アレクサンドリア図書館での公演はこのツアーの一環として行われるものです。ちなみに、このツアーは2年間をかけて行われ、シェイクスピア没後400年にあたる2016年4月23日に、ハムレットの舞台となったデンマークのエルシノア城で幕を下ろすとのことです。

アレクサンドリア図書館では、この公演に合わせて、シェイクスピアに関連した学術会議、講演、ワークショップ、子供のための活動などを行う予定です。

「文明間の対話」や「理解と寛容」をめざすアレクサンドリア図書館は、2011年のいわゆる「エジプト革命」の時期には、建物を暴徒に取り囲まれるといった困難も経験しました。しかし、「知の灯台」としてのアレクサンドリア図書館の役割が失われることはありませんでした。
イスラム世界の科学の歴史
『失われた歴史――イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった』(マイケル・ハミルトン・モーガン著、北沢方邦訳、平凡社)を読み終えたところです。昨今の出版不況の中、内容に価値はあっても、それほどたくさんは売れそうもないこのような本が出版されていることは、非常に意義のあることだと思います。

LostHistory

グローバリゼーションが世界を席巻している間に、むしろ私たちは世界を一元的な価値観で見ることのあやうさに気がつきはじめました。世界を多様な価値をもつ文明の集まりとしてとらえ、文明と文明の間で、対立や葛藤ではなく、対話と理解を進めていくことは、今後ますます重要になってくるでしょう。

とはいえ、私たちが自分たち以外の社会について、その歴史や文化をどれだけ知っているかというと、心もとないところがあります。とくにイスラム圏についての私たちの知識はきわめて限られたものです。歴史的に日本とイスラム社会が直接接触する機会がほとんどなかったことに加え、私たちが世界の歴史を、主に西欧のキリスト教世界を中心に認識してきたことが大きな理由です。

キリスト教世界を中心にした歴史観からすると、学術都市としてのアレクサンドリアが滅亡して以来、知の世界は停滞し、中世は空白の時代でした。天文学でいえば、クラウディオス・プトレマイオスが天体に関する古代の知を『数学全書』(アルマゲスト)として集大成して以来、コペルニクスの時代まで、天文学の進歩はまったくなかったことになります。しかしながら、イスラムの世界から見れば、その間に科学は豊かな発展をとげ、その成果は近代の科学に流れこんでいるのです。

本書は、キリスト教世界からみれば空白の時代を「失われた歴史」としてとらえ、イスラム世界での天文学、化学、数学、医学、テクノロジー、さらには詩や音楽などの歴史を詳述しています。本書でも触れられているように、コペルニクスが地動説に至るには、13世紀の科学者アル・トゥシーの『天文科学覚書』が影響を与えているとする説があります。その事実は別としても、中世の暗黒時代にイスラムの世界で花開いた科学が、その後のヨーロッパ世界にさまざまな影響をもたらしていたり、近代ヨーロッパが発祥とされる科学知識や技術が、それ以前にイスラム世界で得られていた例が数多く紹介されています。

本書で書かれていることの検証は必要でしょうが、これまで私たちが知っていた科学の歴史を、別の視点から見直すことの大切を教えてくれる本です。
アレクサンドリアの南
明日3月5日公開の映画『アレクサンドリア』には、世界の七不思議の1つであるファロスの灯台を、地中海側から眺めたシーンが出てきます。灯台の向こうに古代アレクサンドリアの街並みが広がり、その先にマリュート湖とナイルデルタの西端がかすんで見えています。

alexandria

紀元前332年、エジプトを無血征服したアレクサンドロス大王はまずヘリオポリスとメンフィスにおもむき、その後、ナイル川を下ってカノポス(現在のアブキール)に達しました。「カノポスに着いてマリア湖を岸沿いに周航したアレクサンドロスは、現在彼にちなんで命名されたアレクサンドレイア市があるあたりで陸に上がった。上陸してみるとその場所は、町を建設するのにもってこいの適地であって、そこに建設された町は将来、きっと繁栄におもむくだろうと思われた」(アッリアノス著、大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記』岩波文庫)。現在はマリュート湖あるいはマレオティス湖と表記されることが多いマリア湖は、アレクサンドリアの背後に広がっていた大きな湖です。

アレクサンドロスは都市の建設を命じただけで、ふたたびこの地を自分の目で見ることはありませんでした。紀元前323年にバビロニアで死んだアレクサンドロスの遺体をおさめた黄金の棺は、プトレマイオスによってアレクサンドリアの霊廟に安置されました。

下の画像は、国際宇宙ステーションから撮影されたアレクサンドリアとその周辺です。上が地中海で、東の港をのぞむあたりが古代アレクサンドリアの市街でした。その下にマリュート湖があります。アレクサンドロスの時代、ここは巨大な自然の湖でしたが、今ではかなり開発が進んでいることがわかります。

alexandria

アレクサンドリアの東港の海底や市街地の考古学調査はかなり進んでいますが、その南の地域については、あまり調査が進んでいません。つまり、ファロスの灯台からはるかに見渡すアレクサンドリア市街の向こうがどうなっていたか、くわしくはわかっていないのです。3月24日にスルガ銀行d-labo セミナーで話をされる早稲田大学エジプト学研究所客員准教授の長谷川奏さんは、衛星画像などを使いながら、この地域の古代の環境を調査する計画を進めています。当時、ここには海と湖と川と運河による豊かな水のネットワークが形成され、古代世界の知の中心地を支えていたようです。
月面のヒュパティア
3月5日公開の映画『アレクサンドリア』では、天体の運行のしくみを解き明かそうとするヒュパティアの姿が描かれています。

Hypatia

古代アレクサンドリア最後の天文学者ヒュパティアは、月のクレーターの名前になっています。直径は40×30キロメートルです。

Hypatia

ヒュパティア・クレーターはアポロ11号の着陸地点のすぐ近くに位置しています。着陸地点の南側にヒュパティア谷という全長180キロメートルほどの細い溝があり、その南側、月の古い地形に「未開の入江」という海が入り込んだ複雑な地形の中に、ヒュパティアはあります。

Hypatia

ヒュパティの少し南には、アレクサンドリアの司教だったテオフィロス(直径110キロメートル)、そしてテオフィロスの死後、司教となった甥のキュリロス(直径100キロメートル)が並んでいます。キュリロスはヒュパティアと親交のあったアレクサンドリア長官のオレステスとはげしく対立します。ヒュパティアはこの抗争にまきこまれて殺されました。ヒュパティアの西にある小さなクレーター、テオン・ジュニアが、ヒュパティアの父テオン(アレクサンドリアのテオン)です。その上のテオン・シニアは1世紀ごろのギリシアの天文学者スミュルナのテオンです。

このあたりのクレーターには、どのような経緯で名前をつけられたのでしょう(IAU による命名は1935年)。アレクサンドリアの2人の司教のクレーターがその力を誇るように並んでいる近くに、キリスト教徒に殺されたヒュパティアが、海と陸地の境界の複雑な地形の中、形のくずれたクレーターとして位置し、父のテオンがそのヒュパティアを見守っています。まるで1600年前の出来事がそのまま月面に記されているような気がします。
アレクサンドリア:ヒュパティアの死と学術都市の終焉
カイロやアレクサンドリアでの騒乱状態がニュースで伝えられる中、5世紀のアレクサンドリアの、「知のコスモポリス」の終焉を描いた映画『アレクサンドリア』の試写に行ってきました。3月5日公開です。

Hypatia

レイチェル・ワイズが演じるこの映画の主人公は、アレクサンドリアの数学者、天文学者、哲学者であるヒュパティアです。生まれた年ははっきりせず、350年から370年の間とされています。父のテオンは古代アレクサンドリア図書館に関連して名前がでてくる最後の数学者、哲学者であり、ヒュパティアは父から学問を授かりました。

Hypatia

70万巻ともいわれる書物を所蔵していた大図書館と、当時の一流の学者たちが集まってきた研究所ムーセイオンによって、古代アレクサンドリアは長い間、世界の知の中心地となっていました。しかしヒュパティアの時代に、図書館やムーセイオンがまだ残っていたかどうかはわかっていません。図書館とムーセイオンは王宮地区につくられ、セラペイオン(セラピス神殿)に姉妹の図書館があったとされていますが、現在は跡形もなく、図書館とムーセイオンがいつごろ、どのようにして姿を消したかは謎のままです。

図書館の消失に関しては、紀元前47年、アレクサンドリアに駐留していたカエサル軍がクレオパトラの弟であるプトレマイオス13世の軍隊に攻撃されたとき、カエサルが港に放った火が延焼して図書館を焼失させたという説のほか、269年にパルミラのゼノビアがアレクサンドリアを占領した際に破壊されたという説、映画『アレクサンドリア』にも出てくるキリスト教徒によるセラペイオン破壊の頃に失われたという説もあります。また、642年にアレクサンドリアがアラブに占領された際、すべての書物が浴場の薪のかわりに燃やされたのが図書館の最後だったという説もあります。しかし、どれも定かではありません。2008年にアレクサンドリア図書館のイスマイル・セラゲルディン館長が来日して講演した際、セラゲルディン館長は、古代アレクサンドリア図書館は少しずつ衰退し、姿を消したと語っていました。

ヒュパティアは、アレクサンドリアの学問が困難を迎えた時代に生きました。アレクサンドロス大王がこの地に新しい都市をつくったときから、人間は民族や思想で差別されることはないという精神の下にアレクサンドリアは発展してきました。それがゆえにアレクサンドリアは知のコスモポリスとなりえたのです。「アレクサンドロスには・・・伝統的であったギリシア人中心の華夷思想を否定しようとする側面も強力に存在していた。そして、そこに招聘された文人・学者の出身地の多様性が示すように、プトレマイオス諸王は、アレクサンドロスのこうした観点の継承者であった」(野町啓『学術都市アレクサンドリア』講談社学術文庫)。しかしヒュパティアの時代に、もはやその精神が失われつつあったことを、映画『アレクサンドリア』は描いています。415年にヒュパティアが虐殺された事件は、古代世界の知の中心であった学術都市アレクサンドリアの終焉を告げる象徴的な出来事でした。

アレクサンドリアの学問を最後まで守ったヒュパティアの著作は残されていませんが、父のテオンによるエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』の編纂をヒュパティアは手伝ったといわれています。また、後に『アルマゲスト』とよばれることになるクラディオス・プトレマイオスの『数学全書』のテオンによる注釈には、共同作業者としてヒュパティアの名が記述されています。当時最高の知識を身につけた学者であったと考えられます。天文学者としてのヒュパティアは、プトレマイオスが確立した理論の継承者であったでしょう。

古代バビロニアやエジプトなどでも天体観測は行われていましたが、天文学の教科書の最初に古代ギリシアの天文学がでてくるのは、ギリシアの学者たちによって、はじめて天体の運行を数学的に説明しようという試みがなされたからでしょう。世界でおこる事象の背後にはその本質である「イデア」が存在するというプラトンの考えは、古代ギリシアの宇宙モデルに大きな影響を与えました。プラトンにとって円はもっとも完全な形であり、天体の運行は「一様な円運動」によって説明されなければならないと考えたのです。アリストテレスは地球が宇宙の中心にあり、そのまわりに太陽や月、惑星などの各天体が動く層が重なっているというモデルを考えました。アリスタルコスは地球が自転し、太陽のまわりをまわっているという説をとなえましたが、地球中心説がゆらぐことはありませんでした。

太陽のみかけの大きさが季節によって変化することや、惑星が「逆行」することなどは古くから知られていました。詳細な恒星カタログをつくったことで知られるヒッパルコスは、太陽と月の運動を説明するために「周転円」の考え方を導入しました。周転円とは、大きな円にそって動いていく小さな円のことで、大きな円の中心が地球であり、太陽や月は周転円上を一定の速さで動いていきます。

こうした考えを体系的にまとめたのが、2世紀のアレクサンドリアで活躍したクラディオス・プトレマイオスです。プトレマイオスは地球を宇宙の中心におき、月や太陽や惑星が周転円上を動くモデルを考えますが、このモデルでは天体の動きを完全には説明できないことに気づきます。こうして彼は「エカント」という概念を考え出しました。下の図のように、地球は、各天体の周転円がまわる大円の中心から離れたところに位置しています。大円の中心から地球までの距離と等しく、地球の反対側にあるのがエカントです。周転円を描く天体はこのエカントから見て一様に動いています。

Equant

プトレマイオスのモデルは成功しました。天体の動きを正確に予測し、惑星の逆行もうまく説明できました。彼が確立した天動説はその後、1400年間にわたって世界を支配することになりました。このモデルを含み、古代世界の天文知識を集大成したものが『アルマゲスト』です。天体の運行を数学理論によって説明したという点で、プトレマイオスの業績は画期的であり、当時の知の最高峰であったということができます。ヒュパティアがこの理論を超えて、地球が太陽のまわりをまわっていることや、天体の軌道が楕円であることに気づいていたかどうかは記録に残されていません。

1507年に地動説を発表したコペルニクスも、「円運動」の呪縛から逃れることはできませんでした。天体の軌道が楕円であることを人類が知るには、17世紀はじめのケプラーの仕事をまつしかありませんでした。ケプラーがいかにして楕円の軌道に到達したかは『ヨハネス・ケプラー―近代宇宙観の夜明け』(アーサー・ケストラー、ちくま学芸文庫)にくわしく書かれています。

カール・セーガンはその著書『COSMOS』(木村繁訳、朝日新聞社)の宇宙をめぐる壮大な旅の最終章で、「私たちの歴史のなかでは、輝かしい科学文明が花を開いたことが一度だけあった」とし、「その科学文明のとりでは、アレキサンドリア図書館だった」と書いています。そして、「この図書館で最後まで働いていた科学者」としてヒュパティアを紹介し、その悲惨な死について触れています。「この図書館の最後の光も、ヒパチアの死後まもなく吹き消された」。

ラファエロは『アテネの殿堂』で古代ギリシアの哲学者や科学者たちを描いています。中央左の白の衣の女性がヒュパティアと考えられています。

Hypatia_Athen

映画『アレクサンドリア』はアレクサンドリアに関する最新の研究成果を取り入れて製作されたとのことです。最後に、アレクサンドリアの街を俯瞰するシーンが出てきますが、ヘプタスタディオン堤防の角度は、私が前に書いた通りになっていました。
アレクサンドリアの風
写真集『アレクサンドリアの風』(岩波書店)を出版している写真家の中川道夫さんが、1月27日午後7時からスルガ銀行d-laboで講演を行います。中川さんは1979年からアレクサンドリアの取材しており、写真家の目から見たアレクサンドリアの魅力についてお話しいただける予定です。

Alexandria

ご自身が撮影した写真をまじえた中川さんのお話は、たぶん、古代アレクサンドリアから現代のアレクサンドリアまで、歴史や文化、建築、芸術など幅広い範囲に及ぶでしょう。アレクサンドリアについてひと通りの知識をもっていると、より楽しめるはずです。そんなときにおすすめの本があります。E・M・フォースターの『アレクサンドリア』で、現在、ちくま学芸文庫から出版されています。

Alexandria

『インドへの道』や『ハワーズ・エンド』『眺めのいい部屋』などの作品で知られるイギリスの作家E・M・フォースターは1915年から1919年までアレクサンドリアに滞在し、たちまちこの街に魅了されました。そしてアレクサンドリアの旅行案内書として書き上げたのが本書です。アレクサンドリアの歴史や文化について手際よくまとめられており、アレクサンドリアのガイドブックとして最適な1冊になっています。

『アレクサンドリア』には古代の市街地を示す地図も載っています。この地図を参照しながら本文を読むと、理解が深まります。アレクサンドリアでは考古学的調査が進み、古代の市街地の様子が少しずつ明らかになっています。『アレクサンドリア』に掲載されているものも含めて、これまでの地図と最近の復元地図が大きくことなるのは、市街とファロス島をつなぐヘプタスタディオン堤防です。アレクサンドリアの街は東西および南北方向に走る道路によって碁盤の目に仕切られていました。これまでの地図では、ヘプタスタディオン堤防はこの碁盤の目に対して斜めの角度でファロス島に伸びていましたが、最近の調査で、堤防は南北方向の道の延長上にあったことがわかっています。

Alexandria
The Architecture of Alexandria and Egypt (Yale University Press)

時代が下るとヘプタスタディオン堤防の両側は土砂で埋まり、本土とファロス島は地続きになってしまいました。
知の総合:アレクサンドリア図書館
国際宇宙ステーション(ISS)には日本製のデジタルカメラが装備されており、以前のカメラでは難しかった地球の夜景を撮影することができるようになりました。下の写真は10月28日に、第25次長期滞在クルーが撮影したナイルデルタとその周辺の夜景です。

alexandria

ひときわ明るく輝いているところがカイロです。ナイルデルタの先には地中海が広がり、キプロスやその向こうのトルコ沿岸の明かりが見えます。デルタの右側の光のかたまりはテルアビブとアンマンです。地平線の少し上には、大気の淡い発光が見えています。

写真の白い矢印のところにあるのがアレクサンドリアです。今から2000年ほど前、アレクサンドリアは地中海世界の中心でした。たくさんの船が集まってくる港の入口にはファロスの灯台が建ち、大図書館には世界中の書物が集められました。この写真を見ていると、当時のいろいろな情景を思い浮かべてしまいます。古代アレクサンドリア図書館はその後、火災などによって失われてしまいましたが、2002年に新アレクサンドリア図書館がオープンしました。

スルガ銀行d-labo での12月2日19時からのセミナーでは、アレクサンドリア図書館の初代理事で、現在アレクサンドリア図書館顧問の高橋一生先生が「知の総合 アレクサンドリア図書館」と題して、新アレクサンドリア図書館について話をされます。
都市の記憶:上海とアレクサンドリア
先日、写真家の中川道夫さんにお会いしました。中川さんは上海の取材を続けていて、『上海双世紀 1979-2009』(岩波書店)、『上海紀聞』(美術出版社)などの写真集を出版されています。

『アサヒカメラ』の9月号にも、中川さんの上海の写真が掲載されています。上海万博がはじまる前、2006〜2009年に撮られたものだそうですが、中川さんの写真には、私たちが報道などで知らされている上海の喧騒や熱気は感じられません。中川さんが見ているのは、上海の別の顔なのです。そこにあるのは、時の流れです。あるいは都市自体がもっている記憶といってもいいかもしれません。時がうつり、人間が変わっても、都市は自分の記憶を失うことはない。そこには、人間とは別の時間が流れている。中川さんの写真は、そんなことを教えてくれます。

中川さんはアレクサンドリアの取材もしており、『アレクサンドリアの風』(文章は池澤夏樹、岩波書店)という著書もあります。一見対照的な2つの都市、はげしい変化の中にある上海と、2000年前からの時が悠悠と流れるアレクサンドリア。その両方に、中川さんがひかれるのは不思議に感じられるかもしれませんが、人間とは別の時間が確実に流れている点で、この2つの都市は共通しているのです。

私にとって、このような思いにかられるもう1つの都市は、ロシアのサンクトペテルブルクです。運河のわきの細い街路を歩いていると、ドストエフスキーの世界にまぎれこんだような気になるのは、私だけではないでしょう。ひるがえって、東京はどうでしょう。私たちはこのところ、すべてのオフィスビルにガラスの吹き抜けをつくり、すべての街角にスターバックスを開店させることに全力を使ってきたのではないでしょうか。安易なグローバリゼーションが、東京という都市の記憶を消し去りつつあるように、私には思われます。
世界の七不思議:アレクサンドリアの灯台があった場所
世界の七不思議の1つとして有名なアレクサンドリアの灯台は、アレクサンドリアの東の湾(東港)の入口部分にあるファロス島に建てられていました。灯台を英語でpharos、フランス語でphare、ドイツ語でPharus、イタリア語でfaro といいますが、これらはみなファロス(Pharos)を語源としています。

アレクサンドリアの灯台は紀元前300年ごろに、プトレマイオス1世の命令によって建設がはじまり、紀元前250年ごろ、プトレマイオス2世の時代に完成しました。以後、1000年以上にわたって海上を照らし、岩礁の多い湾を航行する船の安全を守りました。

pharos

当時の建築技術の粋を集めて建設されたこの灯台は、高さが130m に達していたといわれています。石油や薪を燃やし、金属製の鏡で炎を反射させたため、その光は50km 先からでも確認できたと伝えられています。確かに、計算してみると、灯台の頂部が水平線から顔をのぞかせるのは40km 以上先になりますから、この表現はそれほど誇張されたものではないようです。水平線から次第に姿をあらわす灯台を見て、船乗りたちは地球が丸いことを実感したことでしょう。

現在のファロス島は本土とつながっていますが、当時は海に浮かぶ島で、本土とは長い桟橋で結ばれていました。東港には王宮のための船がつく王室専用港もありました。灯台は当時の王宮地区のちょうど対岸にあったので、宮殿からも海上を照らす灯台の光がよく見えたにちがいありません。

796年、この地を襲った地震によって灯台は倒壊してしまいました。その後1480年にスルタンのカイト・ベイによって、廃墟となった灯台の場所に要塞が建設されました。これが現在海軍博物館になっている「カイト・ベイ要塞」で、この砦の基礎は灯台の基礎をそのまま使っているのではないかと考えられています。周辺の海底からは多くの石材や彫像が発見されており、これらが灯台の一部だった可能性もあります。

一方、アレクサンドリア東港の海底調査をしているフランク・ゴディオのチームは、これまでの調査結果から、灯台はカイト・ベイ要塞のある場所よりもさらに先にあった可能性について触れています。東港の入口のちょうど真ん中あたりにある島に、灯台があったのではないかというのです。今後の海底調査で明らかになっていくかもしれません。

1月26日の、東京ミッドタウンのスルガ銀行 d-labo セミナー「古代アレクサンドリアの天文学」でも、この件について少し話をするつもりです。
スルガ銀行 d-labo セミナー

古代アレクサンドリアの星座
しし座、おとめ座、うしかい座、りょうけん座に囲まれるようにして、淡い光を放つ星のかたまりが、かみのけ座です。その名(Coma Berenices)が示すように、かみのけ座はプトレマイオス3世の妻ベレニケの髪が星座になったものです。

かみのけ座

善行王プトレマイオス3世の時代、アレクサンドリアは世界の知を集めた都市として繁栄を極めていました。大図書館には世界中から書物が集められ、ムセイオンでは多くの学者たちが研究をしていました。港の入り口では、世界の七不思議の1つであるファロスの灯台が船乗りたちを迎えていました。

紀元前243年、ベレニケと結婚したばかりのプトレマイオス3世は、シリアとの戦争に出征します。ベレニケは、夫が無事に帰ってきたら自慢の金髪を切り、アフロディテの神殿に捧げると誓いました。プトレマイオス3世は戦いに勝利し、ベレニケは髪を神殿に捧げました。帰還した王は、ベレニケの髪が短くなっているのを見て驚きます。翌日、神殿に捧げられたベレニケの髪はなくなっていました。プトレマイオス3世は怒りましたが、天文学者コノンは、「ベレニケの髪を神々が気に入り、空に上げて星座にしたのだ」ととりなしました。それがかみのけ座です。この話は、アレクサンドリア図書館の図書目録をつくった、詩人でもあるカリマコスによって詩として残されました。

ギリシアの天文学者ヒッパルコスは、かみのけ座を星座として認めていましたが、現在の88星座のうちの48星座を定めた天文学者プトレマイオス(プトレミー)は、かみのけ座を星座として記述していませんでした。しし座の一部と考えていたためです。そのため、長い間、かみのけ座は独立した星座ではなかったのですが、ティコ・ブラーエが17世紀初めに発表した星表でこれを星座としてあつかい、かみのけ座は復活をはたしたのです。

神話を題材にしているものが多い古代の星座の中で、かみのけ座はそれにまつわる史実が残されている珍しい星座です。数々のロマンに満ちた古代アレクサンドリアの天文学について、1月26日に、東京ミッドタウンのスルガ銀行 d-labo セミナーで話をすることになっています。ご興味があれば、おいでください。
スルガ銀行 d-labo セミナー
http://www.d-labo-midtown.com/d-log-detail.php?id=194
エジプトにおける聖家族
ベツレヘムの星の続きの話です。「マタイによる福音書」によると、イエスを訪れた3人の占星術の学者は、ヘロデ王に会うことなく、自分の国に帰ってしまいました。イエスを探し出して殺そうというもくろみが外れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で生まれた2歳以下の男児を皆殺しにするため、兵を差し向けます。ヨセフの夢の中に天使があらわれて告げました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」。ヨセフはその夜のうちに、イエスとマリアを連れてエジプトに向かいます。これが、「聖家族のエジプト避難」です。ヘロデ王が死ぬまで、3人はエジプトにとどまりました。

私の手元に『エジプトにおける聖家族』という本があります。10月のフランクフルト・ブックフェアで、エジプトのセンター・オブ・マーケティングのサファト・アバザ氏にいただいたもので、ヨセフとマリア、そしてイエスのエジプトでの旅の経路が、写真と文で紹介されています。聖書には、3人がどこを旅したかは書いてありませんので、コプト教の文書や伝承などをもとにしたものと思われます。「この本文は教皇シェノウダ契い梁臉仔屋儖会により1999年に作成および修正されました」という記述がみられます。下の写真の左はこの本の表紙、右はこの本の中で紹介されている聖家族のエジプト避難を描いた聖画像(オールドカイロ、コプト博物館蔵)です。

holy_family

アバザ氏によると、この本は、エジプトの人たちだけでつくった日本語の本なのだそうです。私がアレクサンドリア図書館と交流していることを知り、今後のお互いの良い関係のためにと、贈呈してくれました。考えてみると、私たちがエジプトについて知っていることの多くは、欧米の著者による出版物からの情報です。エジプトから日本へ、すなわちアラビア語から日本語という言語の変換を経て直接入ってくる情報はきわめて少ないのが現状です。もちろん、その逆についても同様です。こうした言語の壁を突破して、日本とアラビア語圏との直接的な対話を実現したいと、私は考えています。

ファラオの王朝として成立したエジプトは、ギリシアやその他の地中海世界の文化を受け入れ、アレクサンドリアはヘレニズム世界の中心となりました。イスラム教もキリスト教も受け入れました。『エジプトにおける聖家族』の「まえがき」で、エジプト政府の観光大臣、マンドゥーハ・エル・ベルタギ博士は次のように語っています。「エジプト人は異なるものを一体化すること、すなわち融合が国と文化の基となっていることを知っています。この認識は、言葉の異なる人々や文化・宗教などの違いから生ずる違和感を和らげています」

アバザ氏とは、何ができるかを考えながら、メールのやりとりをしているところです。
新アレクサンドリア図書館の役割
2002年10月16日に、かつて古代アレクサンドリア図書館があったと考えられる場所のすぐ近くにオープンした新アレクサンドリア図書館は、「文明間の対話」をその使命としており、以下の4つを目標として掲げています。

世界がエジプトを知る窓になること
エジプトが世界を知る窓となること
デジタル時代をリードする研究機関になること
教育、寛容、対話、相互理解の中心になること

アレクサンドリア図書館のウェブサイトを訪れると、アラビア語のトップページの右上に、フランス語、英語とならんで「日本語」の文字があることにお気づきになるでしょう。このボタンを押すと、日本語のサイトに移動します。

アレクサンドリア図書館

2003年10月、私はアレクサンドリア図書館を訪問し、イスマイル・セラゲルディン館長にお会いしました。このとき、私はアレクサンドリア図書館と日本との交流の第一歩として、アレクサンドリア図書館の公式日本語サイトをつくらせてほしいという提案をしました。セラゲルディン館長からは即座に了解をいただきました。これがきっかけになって、アレクサンドリア図書館の公式日本語サイトが生まれたのです。

日本語サイトのオープンに際していただいたメッセージの中で、セラゲルディン館長は「現代によみがえったアレクサンドリア図書館は、さまざまな文化や人々の間で対話ができる自由のための場所でありたいと願っています」と語っています。

そのセラゲルディン館長が来日し、10月2日に国立国会図書館で講演します。タイトルは「パピルスからPDFへ:よみがえるアレクサンドリア図書館」です。古代アレクサンドリア図書館の歴史と新アレクサンドリア図書館の役割が語られるはずです。講演の後、長尾真・国立国会図書館館長との対談も予定されています。
ヴィンテージ・アレクサンドリア
ロレンス・ダレルは『アレクサンドリア四重奏』の中で、アレクサンドリアには「五つの種族、五つの言語、十にあまる宗教」があると書いています。19世紀後半から20世紀前半にかけて、アレクサンドリアは地中海最大の商業港として栄え、ギリシア人をはじめ、地中海沿岸からさまざまな人たちがこの都市に集まってきました。当時のアレクサンドリアはエネルギッシュでスタイリッシュなコスモポリタン都市だったのです。

カイロの The American University in Cairo Pressから出版されている “Vintage Alexandria ― Photographs of the City 1860-1960” は、そのころのアレクサンドリアを現代によみがえらせた写真集です。モダンな街並み、高級なファッションに身を包んだ男女、名士や王族が顔をみせるパーティー、海岸でくつろぐ人々。個人のアルバムやポストカードなどから収集された写真は、今では失われたアレクサンドリアの姿を生き生きと伝えてくれます。

この写真集を見ると、多くの人がアレクサンドリアに心をひかれていたことがわかります。ダレルは第二次世界大戦中、イギリス大使館の仕事で最初はカイロに、次にアレクサンドリアに駐在しました。そして彼もまたこの国際都市に魅了されたのです。写真集に掲載されている下の写真は、1930年代のアレクサンドリアの風景です。中央の白い建物が、『アレクサンドリア四重奏』にも登場するセシル・ホテルです。1929年にオープンしたこのホテルは、当時アレクサンドリアで最も洗練されたホテルでした。

Vintage Alexandria

21世紀、アレクサンドリアは私たちに新しい姿を見せてくれるでしょう。今から2000年前、ここには世界最大の図書館がありました。そのアレクサンドリア図書館は2002年、現代によみがえりました。世界に向けて開かれた新アレクサンドリア図書館は、新しいアレクサンドリアをつくる大きな推進力となっています。

「海のエジプト展」で古代アレクサンドリアを探訪する
横浜パシフィコで開催されている「海のエジプト展」が人気のようです。フランスの海洋考古学者、フランク・ゴディオ氏がアレクサンドリア、カノープス、ヘラクレイオンの海底から発掘した貴重な遺物が展示されています。ぜひ行ってみて下さい。ピラミッドやミイラの世界とは別の、もう1つの古代エジプト文明にふれることができるはずです。

私はオープン前日の内覧会に行ってきました。一番印象的だったのは、写真でしか知らなかったクレオパトラの横顔が刻まれたコインを、実際に見ることができたことでした。後世、多くの画家が想像でクレオパトラを描きましたが、実際のクレオパトラの面影をとどめているのは、この小さなブロンズのコインしかないのです。このコインを見る限り、クレオパトラは絶世の美女というよりは、意思の強い知性的な女性という感じがします。

古代アレクサンドリアといえば、多くの書物を集めた古代アレクサンドリア図書館や一流の学者が集ったムーセイオン、世界の七不思議の1つであるファロスの灯台、海底に沈んだクレオパトラの宮殿などが有名です。そもそもこの場所に都市をつくったアレクサンドロス大王の墓も、ここにあったといわれています。

時間をさかのぼり、古代アレクサンドリアを訪れて、街並みを歩いてみたい。ファロスの灯台のてっぺんから対岸を見渡してみたい。そのような私の願望に応えてくれる端末が、会場に置かれていました。古代アレクサンドリアの市街を再現した3次元CGを見ることができるのです。古代アレクサンドリアの上空を自由に飛びまわることができます。高い位置から市を一望することも、地上ぎりぎりまで降下して、大通りを進むこともできます。

私は古代アレクサンドリア探訪を十分に楽しむことができました。とはいっても、1回の時間は3分間です。タイムアウトになると、また最初から画面を操作しなければ、思う場所には行けません。端末に向かって何度も何度も画面を立ち上げる私を、不審に思った人もいたかもしれません。下の画像は、古代アレクサンドリア図書館にやっとたどりつき、ファロスの灯台を望むシーンを携帯のカメラに収めたものです。画面の左上には「残り時間4秒」の表示が見えます。

バーチャル・ツアー

「海のエジプト展」は9月23日まで開催されています。時間があれば、もう一度行ってみたいと思っているのですが、その最大の理由は、クレオパトラのコインではなく、このバーチャル・ツアーにあります。

▲PAGE TOP