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考古学と偵察衛星:コロナ衛星の画像で発掘場所を決定
Archaeology and reconnaissance satellite:Pinpointing an excavation site using Corona imagery

ペンシルロケットの実験場所を地中レーダーで正確に特定した「国分寺インディジョーンズ計画」でお世話になった早稲田大学部文学学術院の城倉正祥先生が、早稲田大学総合人文科学研究センターの研究誌『WASEDA RILAS JOURNAL』第4号(2016年10月)に、キルギス共和国アク・ベシム遺跡の発掘に関する非常に興味深い論文を発表しています。

アク・ベシムはシルクロードの重要な交易都市でした。玄奘三蔵の『大唐西域記』にも登場します。玄奘はインドに向かう途中ここに立ち寄り、当時この都市を支配していた西突厥の王から歓待を受けたとのとのことです。アク・ベシム遺跡の調査は19世紀末からはじまり、20世紀には遺跡の発掘が行われました。同遺跡はシャフリスタン、ラバト、ツィタデルの3つの地区からなっています。

城倉先生が参加した2015年度採択の科研費基盤研究B(海外学術)「中央アジア、シルクロード拠点都市と地域社会の発展過程に関する考古学的研究」(代表:山内和也)によるアク・ベシム遺跡の調査では、特にラバトの発掘調査が重要とされました。ラバトは二重の城壁や内側の城壁から南へ向かう大通りなどをもっています。発掘のターゲットはラバト中心部を矩形に囲む内側の城壁のうちの東壁とされました。しかし、ラバト中心部分一帯は、現在では耕作地となっており、その場所を正確に特定することができなくなっていました。

時間の制約で地中レーダーによる探査ができない中、発掘場所を決めるために重要な役割を果たしたのが、コロナ衛星の画像でした。コロナ衛星は1960年から1972年までアメリカが運用していた偵察衛星のシリーズで、1995年にその画像は機密解除となり、一般に公開されました。

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コロナ衛星が1967年に撮影した写真には、小麦畑の下に埋もれてしまった内側の城壁がはっきり写っていました。しかし、コロナ衛星の画像は座標データをもっていないため、この画像だけでは、発掘場所を決めることができません。そこで城倉先生らはコロナ衛星の画像と、フランスの商業衛星プレアデスが2014年に撮影した画像を合成し、座標データをもつ現在の画像の上に遺跡を「復元」しました。ただし、コロナ衛星の歪みを調整して正確に合成することはソフトウエアだけではできず、アナログの作業も必要でした。考古学者としての画像判読技術が求められたとのことです。

城倉先生らはこの「復元画像」を現地にもっていき、その座標をもとに城壁があったと思われる場所を調べました。すると、わずかな高まりが南北につづく地点が観察されたため、この場所を中心に幅2m、長さ20mの東西に長いトレンチ(発掘区)を設定しました。このトレンチを発掘したところ、すぐに中央部に城壁の基礎が発見されたのです。

コロナ衛星の画像はこれまでも考古学に使われてきましたが、遺跡周囲の環境を見るものがほとんどでした。発掘位置をピンポイントで決定するのに使われ、まさにその場所で遺構が確認されたのは、今回がはじめてといってよいのではないでしょうか。コロナ衛星画像の考古学への応用に、新しい分野を切り開く研究だと思います。

この『WASEDA RILAS JOURNAL』誌第4号には、国分寺インディジョーンズ計画でやはりお世話になった近藤二郎先生も、古代エジプトの王妃ティイのレリーフについての論文を発表しています。こちらも興味深いものでした。
『死者の書』:冥界と宇宙
The Book of Dead:Journey through the afterlife

森アーツセンターギャラリーの「大英博物館古代エジプト展」で、世界最長の『死者の書』である「グリーンフィールド・パピルス」を見てきました。

『死者の書』とは、死んだ人間がいくつもの困難を克服し、冥界を抜けて、「イアルの野」とよばれる来世の楽園にたどりつくまでに必要な呪文を集めた書です。古王国時代には、このような呪文はファラオなど一部の特権階級のもので、棺に記されていましたが、その後、王族以外の人間も使えるようになり、パピルスに書かれた『死者の書』となりました。「グリーンフィールド・パピルス」は全長が37mにおよぶ、現存しているものの中では最も長い『死者の書』であり、今回の展覧会では、その全部を見ることができました。

「グリーンフィールド・パピルス」に描かれた挿絵はどれも美しく興味深いものばかりでした。その中で、とくに印象的だったのは「冥界の丘」でした。冥界の丘は超自然的な力をもつ場所で、全部で15(他の『死者の書』では14の場合もあるようです)あります。死んだ者は必ずここを通らなければなりません。おそらくこれらの丘は、きわめて複雑な概念をもつ場所なのでしょう。他の『死者の書』にはこれらの丘を描写したものもありますが、「グリーンフィールド・パピルス」に描かれている冥界の丘の「地形」は、きわめて単純化され、ある意味でシンボル化された図像になっています。迷宮の丘とは、文字や図で説明することが不可能な場所なのかもしれません。

私にとって最大の感動は、天と地のはじまりを描いた図に出会えたことでした。古代エジプト人の宇宙観として簡単な線画で紹介されることが多いものですが、パピルスに描かれた本物の図を見たのは、これがはじめてでした。

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つま先と指先を地につけているのが天の女神ヌウトで、ヌウトをもち上げているのが、大気の神シュウです。地の神ゲブは横たわっています。ヌウトとゲブはもともと重なっていたのですが、シュウがヌウトをもち上げたために、世界ができあがったことを示しています。大地と天が切り離され、その間に大気が存在して、人間が息をすることのできる世界ができあがったわけです。『死者の書』にこのような図が示される例は他にほとんどないとのことです。

「グリーンフィールド・パピルス」以外にも、『アムドゥアト書』や『洞窟の書』の図像も素晴らしいものでした。
古代マヤの暦に関する新発見
New Mayan calendar discoveries

ボストン大学の研究チームによる、古代マヤの暦に関する新しい発見が、5月11日号の『サイエンス』誌で発表されました。グアテラマのシュルトゥンにある紀元900年頃の遺跡から、月の満ち欠けや惑星の運行を示す表が見つかったというものです。「2012年の世界の終末を否定」「7000年先まで暦が存在」といった見出しで報道されていましたが、この発見の意味はまったく別のところにあります。

マヤ文明時代の文書は、スペインに統治されたときにそのほとんどが燃やされてしまったため、現存するものは4つしかありません。ドイツにある「ドレスデン絵文書」、スペインにある「マドリッド絵文書」、フランスにある「パリ絵文書」、そしてメキシコにある「グロリア絵文書」です。これらはどれも、マヤ文明の最後の時代(紀元1300〜1500年)に属するものです。現在、私たちがマヤの天文学や暦について知っている知識のほとんどは、こうした絵文書の中に示されていた天体表や暦にもとづいています。

マヤの人々は高度な天文学的知識をもっていたといわれます。太陽や月、金星、火星などの惑星の動きを観測し、そこに周期性を見出して正確な運行表をつくりあげていたのです。これによって、マヤの人々は日食や月食、惑星が特別な場所にくる日などを予測することができました。マヤの社会で、これらは宗教儀式のために、非常に重要な情報だったのです。

今回、シュルトゥン遺跡の壁には、黒い点や線で書かれた表のようなものがあり、それらは月の満ち欠けや天体の運行を示す表であることが明らかになりました。下の画像はその中の1つで、月の満ち欠けの周期を示す表です。

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この月の周期表は、ドレスデン絵文書に含まれているデータと共通するものであることがわかりました。シュルトゥンの時代の人々は、177〜178日の周期(月の満ち欠け6回分)をベースにして日食や月食の予測に使っていたようです。一方、ドレスデン絵文書では、177〜178日の周期に加え、148日の周期(月の満ち欠け5回分)を使って補正をし、予測の精度を上げていました。金星の運行表や、暦の途中から天体の運行を計算するために用いる「リング・ナンバー」などにも、ドレスデン絵文書との共通性が見られるとのことです。

マヤの長期暦は約5000年の周期をもっています。今年の12月にその周期の終わりがくるわけですが、シュルトゥン遺跡で発見された日付の表では、それよりも短い周期のものや、長期暦よりかなり長い周期の表も見つかりました。

今回の発見は、マヤの天文学や暦の成立過程の研究に大きな役割を果たすのではないかと、私は考えています。
古代マヤ文明はなぜ崩壊したか
マヤ文明は紀元前から存在していましたが、とくに栄えた時期が2つあります。紀元300年から800年ごろの古典期と、1000年ごろからはじまり、1500年代初期まで続く後古典期です。マヤ文明の盛衰には、ユカタン半島の自然環境の変化が大きく関係していたようです。

古典期の終わりごろ、マヤの人々は熱帯雨林のほとんどを伐採して耕作地にしていました。そのため、以前は森林に吸収されていた太陽光の反射率が高くなり、結果的にこの地域の気候を変える要因になりました。NASA のゴダード宇宙研究所のベン・クックが気候モデルを使って、800〜950年ごろの気候を再現してみたところ、この時代の雨季(6〜8月)は熱帯雨林が存在していたときよりも気温が高く、乾燥していたことがわかりました。

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上の画像は、800〜950年ごろに自然の植生がどのように分布していたかを示したものです。白いところほど、自然の植生が失われていることを示しており、マヤ文明が栄えていたユカタン半島では、森林伐採が大規模に行われたことがわかります。

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上の画像は、熱帯雨林が存在していたころと比べた800〜950年ごろの降水量を示したもので、茶色が濃いほど降水量が少なくなります。ユカタン半島では、降水量が20%も減少しています。

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上の画像は、熱帯雨林が存在していたころと比べた800〜950年ごろの夏の気温を示したもので、赤茶色が濃いほど気温が高くなります。ユカタン半島では気温0.3〜0.4度C高くなっています。

こうした気候の変化が干ばつの度合いを増幅し、古代マヤ社会に混乱をもたらしたのかもしれません。

マヤ文明の崩壊と気候の関係については、『サイエンス』誌の2003年3月14日号に興味深い論文が発表されています。当時、チューリッヒ工科大学の地球科学部門に所属していたGerald H. Haug らは、ベネズエラ沖のカリアコ海盆で得られた堆積物コアの分析から、当時の降水量を高い解像度で復元してみました。

それによると、ユカタン半島では紀元150〜250年ごろにひどい干ばつの時期があることがわかりました。この時期は、社会的混乱が起こり、それまでの都市が放棄された時期にあたります。その後、人々はふたたび集まり、古典期が花開きました。

Haug らはさらに、750〜950年の200年間に、ユカタン半島がきわめてきびしい干ばつに何度も見舞われたことも明らかにしました。下の図はHaug らが行った、この期間の分析結果を示すもので、縦軸は堆積物中に含まれるチタンの比率を示しています。チタンの含有量が少ないところが干ばつに見舞われた時期で、濃いグレーで示されています。これによると、760年ごろ、810年ごろ、860年ごろ、910年ごろに何年にもわたる干ばつが起こったことがわかります。

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こうした事態が、マヤ文明古典期の終息をもたらす要因になったと考えられます。とくにユカタン半島北部はもともと降水量が少なく、都市の生活はセノーテ(石灰岩地帯につくられた陥没穴)に溜まる地下水に依存していたため、干ばつによる影響は大きかったと考えられます。

古典期末期における夏季の降水量減少については、『サイエンス』誌の2012年2月24日号で、イギリス、サウサンプトン大学の国立海洋学センターのMartin Medina-Elizalde らが、4種類の古気候データを検討した結果を発表しています。それによると、この時代の夏季の降水量は最大で40%も減少しており、その原因は、この時期に発生する熱帯低気圧やハリケーンの頻度や強度が低下したせいではないかとしています。
たたら製鉄とヤマタノオロチ
島根県奥出雲の奥出雲多根自然博物館に行ってきました。このあたりは近くを斐伊川が流れており、ここから採った砂鉄を原料にした「たたら製鉄」が古代から行われていたところです。スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治の神話の舞台でもあります。

ヤマタノオロチが何であったかについては、いくつかの説があります。例えば、斐伊川の氾濫の様子がヤマタノオロチだったとする説や、このあたりの谷に点在していたたたらで赤く熱せられた鉄の様子がヤマタノオロチだという説があります。

私は、以前から、ヤマタノオロチとは、斐伊川流域の谷でよく起こった土石流ではないかと考えています。その理由は、スサノオノミコトが各地で植林を行ったと伝えられていることにあります。たたら製鉄に使う木炭のために森林を切りはらい、そのため土石流がたびたび発生していたのを、植林を行うことで山の荒廃を防いだのがヤマタノオロチ退治になったのではないでしょうか。もちろん、ヤマタノオロチの尾から草薙の剣がでてきたことは、この伝説が製鉄と関係していることを示しています。

出雲空港まで送っていただいた車の中で、奥出雲多根自然博物館常務理事の宇田川さんに、この地のたたら製鉄についていろいろ教えていただきました。たたら製鉄については前から興味があったのですが、あまりくわしいことは知りませんでした。この機会に、少し調べてみたいと思っています。
オリンポスの神々
古代バビロニアの人々は、肉眼で見える5つの惑星をすでに観測しており、それに彼らの神々の名前をつけていました。バビロニアの天文知識は、その後ギリシャに伝えられ、5つの惑星の名は、ギリシャ神話に登場する神々の名となりました。これらの名はさらにローマに伝えられました。西欧世界で用いられる水星、金星、火星、木星、土星の名はこうして定着しました。その後、発見された天王星、海王星、冥王星も、これに準じて命名されたわけです。

このうち、ヘルメス(水星)、アフロディテ(金星)、アレス(火星)、ゼウス(木星)、ポセイドン(海王星)は、オリンポス山に住む「オリンポス十二神」に属します。ハーデース(冥王星)は十二神と同格とされますが、住んでいるのは冥界あるいは地底です。クロノス(土星)はゼウスの父、ウラノス(天王星)はクロノスの父で、ギリシャ神話の神々の系譜はそもそもウラノスとその妻ガイアから始まったのです。

「オリンポスの煌き」と名付けられたこのチョコレートには、これらの惑星が並んでいます。

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ただし、土星と、準惑星となった冥王星は含まれていません。土星はリングまで入れると他の惑星とバランスがとれないためかもしれません。また、上に述べたように、クロノスはオリンポスの神ではありません。その代わり、オリンポス十二神の1人である月の女神アルテミスが入っています。また、アフロディテの息子ともいわれるキューピッドも入っています。これに対応する天体は小惑星のエロス、あるいはアモールです。バレンタインデーの必須アイテムとして入っているのかもしれません。いずれにしても、天空の神である天王星を除けば、ここには輝かしいオリンポス山の神々が並んでいます。

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