三島由紀夫:2つの謎

0

    Mishima:Two Subjects to be Solved

     

    書店でみつけて思わず買ってしまった『三島由紀夫 ふたつの謎』(大澤真幸、集英社新書)。社会学者の立場からの『豊饒の海』の分析は非常に新鮮でした。

     

    1970年11月25日。この日、三島は雑誌『新潮』に連載していた『豊饒の海』第4巻『天人五衰』の最終回の原稿を、この日の日付を入れて出版社に渡しました。そして、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛官に「決起」を呼びかけ、それがかなわないと知ると割腹自殺を遂げたのです。大澤氏の問いかける謎とはこの日の2つの出来事に関することで、「『天人五衰』の結末はあれでよかったのか?」、そして「三島はなぜ割腹自殺したのか?」ということです。

     

    まず、『天人五衰』の結末について。三島は『豊饒の海』についての創作ノートを残しており、そこには第4巻の結末について、実際の『天人五衰』とは異なるアイデアが書かれています。大澤氏は、『天人五衰』を書き始めた時点で、三島は別の結末を考えており、それが途中で今の結末になってしまったのではないかとし、今の結末は「あまりにも破壊的な効果をもつ終わり」で、「この結末を認めてしまえば、全四巻から成る『豊饒の海』のそこまでの展開のすべてが、遡及的に、無意味なものとして否定されてしまう」と述べています。

     

    しかしながら、『豊饒の海』第1巻『春の雪』から第4巻『天人五衰』の月修寺での結末までを読み終え、もう1度、『春の雪』の結末を読み返してみれば、『天人五衰』の結末はこれしかなかったと考えざるを得ません。死に際した本多が解脱し、すべてが肯定されるような結末は、三島の文学としては成り立たなかったでしょう。第2巻『奔馬』、第3巻『暁の寺』には、本多が月修寺訪問を考え、今はその時ではないと思いとどまる場面があります。『天人五衰』の結末は、『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』を通じてその伏線が張られていたというべきでしょう。たとえ別の結末のアイデアがあったとしても、三島は『天人五衰』の連載を始めた早い段階で、すでに今の結末を考えていたと考えられます。最後の最後で「何もないところへ、自分は来てしまった」と本多が考え、それまでの全4巻で語られてきたことすべての意味が分からなくなってしまうところに、『豊饒の海』という作品の底知れない魅力があると私は考えています。

     

    実は、「『天人五衰』の結末はあれでよかったのか?」という問いは、三島由紀夫の研究者である井上隆史氏がすでに論考したところであり(『三島由紀夫 幻の遺作を読む』、光文社新書)、大澤氏の今回の著書は、同じ問いを大澤氏の学問的立場から検討したものといえます。井上氏も『三島由紀夫 幻の遺作を読む』で、今の結末は「『春の雪』以降展開してきた筋立てが解体することであり、作品の時空間が消滅してしまうことである」と述べています。井上氏は書かれることのなかったもう1つの『天人五衰』を、創作ノートをもとに構成し、考察を加えています。興味深いのは、井上氏がエピローグで、「やはり三島はその構想を破棄し、実際に発表された通りの『天人五衰』を書いてこそ、三島由紀夫なのだ」と述べていることです。

     

    『三島由紀夫 ふたつの謎』でもふれられていますが、三島が16歳の時に書いた事実上のデビュー作『花ざかりの森』の結末と『天人五衰』の結末が似ているという指摘が以前からなされています。実際、『花ざかりの森』の結末の「死に似た静謐」は、『天人五衰』の結末とまったく同じといってよいものです。さらにいえば、三島が20歳の時に書いた『岬にての物語』をこれに加えてもいいでしょう。この作品の結末で、若い二人が飛び降りた岬の先端で主人公が腹ばいになって見下ろした海の「無音の光景」も、『花ざかりの森』と『天人五衰』に共通しています。三島という作家は、最後に同じ光景に戻ってきたのです。これは『豊饒の海』で、本多が『春の雪』の結末の場所である月修寺に『天人五衰』で最後に戻ってきたことと対応しています。

     

    ちなみに『豊饒の海』というタイトルですが、これは月の海の名前です。三島自身が『春の雪』の後註で「月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatisの翻訳である」と書いています。「海」は三島文学にとって特別な存在でした。そして『豊饒の海』では「月」も特別な意味をもちます。三島が『豊饒の海』を書きはじめた頃には、Mare Foecunditatisはすでに「豊かの海」という平易な表記になっていましたが、戦前までは「豊饒の海」あるいは「豊饒海」などが使われていました。「海」と「月」をめぐる長編のタイトルを考えた時に、三島は古い月面図で見た「豊饒の海」という表記に興味を覚えたのでしょう。したがって、実際の豊かの海が水もない不毛な場所であるという事実は、三島にとってあまり意味をもたなかったと思います。三島は『春の雪』に登場する鎌倉の海を「豊饒の海」として書いています。それに対して『天人五衰』の冒頭で透が望遠鏡で眺める駿河湾は、俗にまみれ、悲劇性を失った海として書かれています。時代がそれだけ変わってしまったのです。

     

    さて、もう1つの謎、三島はなぜ割腹自殺したかです。井上氏は、『天人五衰』の実際の結末と書かれなかった結末は「虚無」と「救済」の闘いであったとし、虚無が勝ってしまったことが、三島の死に関係していると述べています。三島の割腹自殺に、三島自身がもっていたはかりしれないニヒリズムが作用していたのは間違いありません。さらに、これについて考えるには、『仮面の告白』を読む必要があります。この作品は、タイトルからして三島という作家の二面性を表現しています。この作品に書かれていることは、仮面をつけることではじめて可能になった作者自身の真の告白なのか? それとも仮面による完全な虚構なのか? 何が真実かは作者にしか分からないわけですが、この作品を読んで私たちが気づくことが1つあります。三島が絵画『聖セバスチャンの殉教』に惹かれ、自分も腹に矢を射られた聖セバスチャンになりたいと考えていたことです。

     

    三島は聖と俗というか、美の究極を求める純粋な文学者であると同時に、俗世間に自らのもう1つの面を投影し、マスコミに取り上げられることを好んだ作家でもありました。三島の人生で前者の仕上げが『豊饒の海』であり、後者の仕上げがボディビルで鍛えた身体で切腹すること、すなわち聖セバスチャンとして死ぬことでした。三島は割腹自殺する数年前に『憂国』や映画『憂国』で切腹のシミュレーションを行っていましたし、雑誌『血と薔薇』のグラビアでは、自ら聖セバスチャンとなった姿を篠山紀信に撮らせていました。

     

    三島の割腹自殺の日、私はまだ学生で、荻窪あたりでアルバイトをしていた記憶がありますが、不思議なことにニュースを知っても驚きはなく、三島の魂もこれで鎮まるのではないかと考えたのをおぼえています。

     

    三島にとって2つの出来事は同じ日に起こらなくてはならなかったのでしょう。とすると、三島が市ヶ谷の自衛隊を訪問する日程が先に決まり、それに合わせて『天人五衰』を終わらせるという段取りになります。三島は『天人五衰』の最終回の原稿を1970年の夏には書いており、その原稿の入った茶封筒をドナルド・キーンに見せたことは、よく知られています。おそらく三島は、連載の途中から、先に結末を書き終え、自衛隊訪問の日程に合わせてその間を埋めるという書き方をとったのでしょう。さらにいえば、三島は、早く結末を書いてしまいたいという誘惑を抑えることができなかったのかもしれません。『天人五衰』を読み進んでいくと、「九月三日の事件」あたりから、物語の展開が急になり、最終回に向かって先を急ぐ感があります。『天人五衰』の完結はもともと1971年後半とされていました。それが自衛隊での日程に合わせて早まってしまったということなのでしょう。

     

    久しく思いめぐらすことのなかった三島の作品について、あれこれ考えてしまうほど、大澤氏の本は知的刺激に満ちていました。

     


    1

    calendar

    S M T W T F S
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << October 2019 >>

    selected entries

    categories

    archives

    links

    profile

    書いた記事数:120 最後に更新した日:2019/10/16

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM