古代アレクサンドリア:ヒュパティアの死と学術都市の終焉

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    Ancient Alexandria:Hypatia's Death and the Fall of the Academic City

     

    明星大学の資料図書館で開催されている明星大学貴重書コレクション展「コペルニクスとガリレオ」に行ってきました。コペルニクスの『天体の回転について』の初版やガリレオの『天文対話』などが展示されています。これらの貴重な書物を実際に見ることができる機会はめったにありません。会場内では映画『アレクサンドリア』も流されていました。

     

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    5世紀のアレクサンドリアを舞台に、知のコスモポリスの終焉を描いた映画『アレクサンドリア』の主人公は、アレクサンドリアの数学者、天文学者、哲学者であるヒュパティアで、レイチェル・ワイズが演じています。ヒュパティアの生まれた年ははっきりせず、紀元350年から370年の間とされています。父のテオンは古代アレクサンドリア図書館に関連して名前がでてくる最後の数学者、哲学者であり、ヒュパティアは父から学問を授かりました。

     

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    70万巻ともいわれる書物を所蔵していた大図書館と、当時の一流の学者たちが集まってきた研究所ムーセイオンによって、古代アレクサンドリアは長い間、世界の知の中心地となっていました。しかしヒュパティアの時代に、図書館やムーセイオンがまだ残っていたかどうかはわかっていません。図書館とムーセイオンは王宮地区につくられ、セラペイオン(セラピス神殿)に姉妹の図書館があったとされていますが、現在は跡形もなく、図書館とムーセイオンがいつごろ、どのようにして姿を消したかは謎のままです。

     

    図書館の消失に関しては、紀元前47年、アレクサンドリアに駐留していたカエサル軍がクレオパトラの弟であるプトレマイオス13世の軍隊に攻撃されたとき、カエサルが港に放った火が延焼して図書館を焼失させたという説のほか、269年にパルミラのゼノビアがアレクサンドリアを占領した際に破壊されたという説、映画『アレクサンドリア』にも出てくるキリスト教徒によるセラペイオン破壊の頃に失われたという説もあります。また、642年にアレクサンドリアがアラブに占領された際、すべての書物が浴場の薪のかわりに燃やされたのが図書館の最後だったという説もあります。しかし、どれも定かではありません。2008年に新アレクサンドリア図書館のイスマイル・セラゲルディン館長(当時)が来日して講演した際、セラゲルディン館長は、古代アレクサンドリア図書館は少しずつ衰退し、姿を消したと語っていました。

     

    ヒュパティアは、アレクサンドリアの学問が困難を迎えた時代に生きました。アレクサンドロス大王がこの地に新しい都市をつくったときから、人間は民族や思想で差別されることはないという精神の下にアレクサンドリアは発展してきました。それがゆえにアレクサンドリアは知のコスモポリスとなりえたのです。「アレクサンドロスには・・・伝統的であったギリシア人中心の華夷思想を否定しようとする側面も強力に存在していた。そして、そこに招聘された文人・学者の出身地の多様性が示すように、プトレマイオス諸王は、アレクサンドロスのこうした観点の継承者であった」(野町啓『学術都市アレクサンドリア』講談社学術文庫)。しかしヒュパティアの時代に、もはやその精神が失われつつあったことを、映画『アレクサンドリア』は描いています。415年にヒュパティアが虐殺された事件は、古代世界の知の中心であった学術都市アレクサンドリアの終焉を告げる象徴的な出来事でした。

     

    アレクサンドリアの学問を最後まで守ったヒュパティアの著作は残されていませんが、父のテオンによるエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』の編纂をヒュパティアは手伝ったといわれています。また、後に『アルマゲスト』とよばれることになるクラディオス・プトレマイオスの『数学全書』のテオンによる注釈には、共同作業者としてヒュパティアの名が記述されています。当時最高の知識を身につけた学者であったと考えられます。天文学者としてのヒュパティアは、プトレマイオスが確立した理論の継承者であったでしょう。

     

    古代バビロニアやエジプトなどでも天体観測は行われていましたが、天文学の教科書の最初に古代ギリシアの天文学がでてくるのは、ギリシアの学者たちによって、はじめて天体の運行を数学的に説明しようという試みがなされたからです。世界でおこる事象の背後にはその本質である「イデア」が存在するというプラトンの考えは、古代ギリシアの宇宙モデルに大きな影響を与えました。プラトンにとって円はもっとも完全な形であり、天体の運行は「一様な円運動」によって説明されなければならないと考えたのです。アリストテレスは地球が宇宙の中心にあり、そのまわりに太陽や月、惑星などの各天体が動く層が重なっているというモデルを考えました。アリスタルコスは地球が自転し、太陽のまわりをまわっているという説をとなえましたが、地球中心説がゆらぐことはありませんでした。

     

    太陽のみかけの大きさが季節によって変化することや、惑星が「逆行」することなどは古くから知られていました。詳細な恒星カタログをつくったことで知られるヒッパルコスは、太陽と月の運動を説明するために「周転円」の考え方を導入しました。周転円とは、大きな円にそって動いていく小さな円のことで、大きな円の中心が地球であり、太陽や月は周転円上を一定の速さで動いていきます。

     

    こうした考えを体系的にまとめたのが、2世紀のアレクサンドリアで活躍したクラディオス・プトレマイオスです。プトレマイオスは地球を宇宙の中心におき、月や太陽や惑星が周転円上を動くモデルを考えますが、このモデルでは天体の動きを完全には説明できないことに気づきます。こうして彼は「エカント」という概念を考え出しました。下の図のように、地球は、各天体の周転円がまわる大円の中心から少し離れたところに位置しています。大円の中心から地球までの距離と等しく、地球の反対側にあるのがエカントです。周転円を描く天体はこのエカントから見て一様に動いています。

     

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    プトレマイオスのモデルは成功しました。天体の動きを正確に予測し、惑星の逆行もうまく説明できました。彼が確立した天動説はその後、1400年間にわたって世界を支配することになりました。

     

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    このモデルを含み、古代世界の天文知識を集大成したものが『アルマゲスト』です。天体の運行を数学理論によって説明したという点で、プトレマイオスの業績は画期的であり、当時の知の最高峰であったということができます。ヒュパティアがこの理論を超えて、地球が太陽のまわりをまわっていることや、天体の軌道が楕円であることに気づいていたかどうかは記録に残されていません。

     

    1507年に地動説を発表したコペルニクスも、「円運動」の呪縛から逃れることはできませんでした。天体の軌道が楕円であることを人類が知るには、17世紀はじめのケプラーの仕事をまつしかありませんでした。ケプラーがいかにして楕円の軌道に到達したかは『ヨハネス・ケプラー――近代宇宙観の夜明け』(アーサー・ケストラー、ちくま学芸文庫)にくわしく書かれています。

     

    ラファエロは『アテネの殿堂』で古代ギリシアの哲学者や科学者たちを描いています。中央左の白の衣の女性がヒュパティアと考えられています。

     

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    カール・セーガンはその著書『COSMOS』(木村繁訳、朝日新聞社)で、宇宙をめぐる壮大な旅の後の最終章で、「私たちの歴史のなかでは、輝かしい科学文明が花を開いたことが一度だけあった」とし、「その科学文明のとりでは、アレキサンドリア図書館だった」と書いています。そして、「この図書館で最後まで働いていた科学者」としてヒュパティアを紹介し、その悲惨な死について触れています。「この図書館の最後の光も、ヒパチアの死後まもなく吹き消された」。


    ソユーズ1号:コマロフの墜落

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      Soyuz 1:Komarov’s Fall

       

      今から51年前の1967年4月23日、ソ連の新しい宇宙船ソユーズ1号がバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。搭乗していたのはウラジーミル・コマロフでした。コマロフは1960年に宇宙飛行士に選抜されました。1964年にボスホート1号で初飛行をしており、これが2回目の宇宙飛行でした。コマロフは世界初の有人宇宙飛行を行ったユーリー・ガガーリンの親しい友人でもありました。

       

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      当時、アメリカとソ連は月着陸一番乗りの競争を展開していました。月への有人飛行のためにソ連が開発した宇宙船がソユーズです。ソユーズ1号が予定の軌道に入ると、コマロフの妻ワレンティナは同僚の宇宙飛行士パヴェル・ポポビッチから、夫が宇宙にいることを知らされました。当時のソ連では、有人宇宙船の打ち上げは国家機密であり、宇宙飛行士は宇宙に「出張」することを妻にさえ告げることはできませんでした。

       

      打ち上げは順調に行われましたが、すぐにトラブルが発生しました。2枚の太陽電池板のうち左側の1枚が開かず、十分な電力が得られなかったのです。おまけにスターセンサーが働かず、姿勢制御ができない状態でした。宇宙船は制御不能におちいりました。コマロフは宇宙船のコントロールを回復しようと試みましたが、うまくいきませんでした。

       

      ソユーズ1号は7周目から13周目まで、ソ連の追跡局の交信範囲を外れてしまいます。管制室からは交信が回復するまで、就寝するようにという指示が出されましたが、おそらくコマロフはその間も宇宙船と格闘していたと思われます。13周目で交信が回復したとき、コマロフは宇宙船がまだ制御不能であることを報告してきました。

       

      ソユーズ1号は翌日に打ち上げられるソユーズ2号とドッキングすることになっていました。月への飛行に必要なドッキングと船外活動による宇宙飛行士の移乗をテストするためでした。しかし、ここにいたって、ソユーズ2号の打ち上げはキャンセルされ、コマロフは緊急帰還することになりました。16周目、コマロフは大気圏再突入を試みましたが、うまくいきませんでした。17周目での試みも、不成功に終わりました。

       

      事態はきわめて深刻でした。急きょ、コマロフの妻ワレンティナのもとに、管制室から迎えの車が差し向けられました。コマロフとワレンティナは数分間、2人だけで話をすることができました。

       

      18周目、コマロフはなんとか宇宙船の姿勢を制御し、大気圏突入を成功させました。しかし降下の最終段階で問題がおこりました。メインパラシュートを引き出すためのドラッグシュートがからまってしまったのです。そのため、メインパラシュートは開きませんでした。宇宙船は地上に激突し、コマロフは宇宙飛行で死亡した最初の人間となったのです。

       

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      ソユーズ宇宙船のパラシュートには開発当初から問題があり、ソユーズ1号の打ち上げ時にも、問題は完全には解決していなかったとみられます。ソユーズ1号の搭乗者はプライムがコマロフ、バックアップはガガーリンで、コマロフが搭乗を断れば、ガガーリンが搭乗することになっていました。しかしコマロフはソユーズ1号の飛行の危険性を知っており、友人であり、国家的にも重要な人物であるガガーリンを危険にさらすわけにはいかないと判断し、搭乗を引き受けたといわれています。コマロフの遺体はクレムリンの壁に埋葬されました。下の画像の、コマロフの写真の前にひざまずいているのが妻のワレンティナです。

       

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      EMIクラッシクスの『惑星』(指揮:サイモン・ラトル、演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)のCD2には、ソユーズ1号の事故を題材にしたブレット・ディーン作曲の「コマロフの墜落」が入っています。

       

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      ブレット・ディーンは「コマロフの墜落」を作曲するにあたり、コマロフとワレンティナの最後の会話に強い印象を受けたようです。どのような会話であったかは公表されていませんが、確かにそれは、ソ連の有人宇宙計画の歴史の中でも他に例のない特別なエピソードでした。「この情景は作品の中ほどの、短いながらも抒情的な部分で表現されている」と、ディーンは述べています。


      ネモフィラの丘

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        Field of Nemophila in Hitachi Seaside Park

         

        茨城県の国営ひたち海浜公園のネモフィラは開花が例年に比べて約2週間早く、今が見頃のようです。私は先週、見に行ってきました。

         

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        ネモフィラはハゼリソウ科の1年草です。みはらしの丘に植えられている450万本のネモフィラは淡い青の花をつけるインシグニスブルーです。

         

        私は子供の頃、夏になると毎年のように阿字ヶ浦海岸を訪れていました。海岸のずっと北を見ると、そこには太平洋の波がはげしく打ちつける黒い桟橋がありました。その向こうには何があるのだろうと、私はいつも思っていたものです。そこが現在の国営ひたち海浜公園のある場所なのですが、そこはかつて旧日本陸軍の水戸飛行場であり、戦後はアメリカ軍の対地射爆撃場として利用されていました。下の画像は1949年に米軍が撮影した同地域の航空写真です。

         

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        1938

        旧日本陸軍が県保有地・民有地を買収、水戸飛行場を建設。

        19466

        連合国軍が接収、空軍の対地射爆撃場に指定。

        19527

        講和条約の発効により在日米軍の施設となる。

        19716

        在日米軍が射爆行為を停止。

        1973315

        水戸対地射爆撃場跡が日本政府に返還される。

         

        土地の古い人に聞けば、ここに飛行場があったことや、長い間、一般人が立ち入ることができない場所であったことを教えてくれますが、ほとんどの来園者はそのようなことに気づかないほど、今ではここに穏やかな風景がひろがっています。しかし、同公園の歴史をみてみると、この場所が日本に返還されてから、公園が開園し、次第に施設が拡張されて今の姿になるまでにはずいぶん時間がかかったようです。

         

        戦争の記憶が残る土地を、美しい花が咲く公園にするためには関係者の多くの努力があったことでしょう。射爆の標的となっていたまさにその場所には建設発生土が盛られて、みはらしの丘がつくられました。その一番高い場所には、平和への願いをこめたみはらしの鐘が立っています。


        アポロ13号:Failure is not an option

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          Apollo 13:Failure is not an option

           

          アポロ13号の劇的な帰還に関しては、ヒューストンのミッション・コントロール・センター(MCC)が大きな役割を果たしました。

           

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          アポロ13号ミッションで、主任フライト・ディレクターとしてMCCのホワイトチームを率いたジーン・クランツは、アポロ13号のクルーとともに大統領自由勲章を授与されています。彼のトレードマークはクルーカットの髪と、ミッションにかかわる人々に敬意を表して着用していたベストでした。上の画像で、手前右にいるのがクランツです。

           

          アポロ13号にまつわる言葉として有名なのが ”Failure is not an option”(失敗という選択肢はない)です。この言葉はヒューストンではとても有名で、スペースセンター・ヒューストンに行くと、Tシャツやマグカップ、ポストカードなどにこれを使ったおみやげ品がたくさん並んでいます。

           

          ”Failure is not an option” は時としてジーン・クランツの言葉とされますが、実際はトム・ハンクス主演の映画『アポロ 13』(1995年公開)の制作時に誕生したものです。『アポロ13』は、アポロ13号の船長だったジェームズ・ラベルの著書『Lost Moon』の映画化でした。細部に事実と異なるところがあり、ハリウッド流の演出が気になる点はあるものの、よくつくられた映画だと思います。私が一番気になったのは、トム・ハンクスが実際のラベル船長にぜんぜん似ていないことでした。

           

          さて、『アポロ13』がつくられる前、2名の脚本家がヒューストンを訪れ、アポロ13号当時のフライト・コントローラーであり、『アポロ 13』のテクニカル・アドバイザーをつとめたジェリー・ボスビックに取材しました。「MCCの人たちというのは、どのような人種なのですか」「パニックになることはあるのですか」といった質問に、ボスビックは「何か悪いことが起きたとき、私たちは冷静にすべての選択肢を考えました。失敗はそれらの選択肢の中にはありませんでした。私たちはパニックになることはありません。解決策を見つけることをあきらめたことはありませんでした」と答えました。

           

          ボスビックの言った ”we just calmly laid out all the options, and failure was not one of them” は、いたく彼らを刺激したようです。「映画のキャッチフレーズはこれだ!Failure is not an option。あとはこれを誰の台詞にするかだ」。こうして『アポロ13』で、ジーン・クランツを演じたエド・ハリス(こちらは本人に似ていました。もっと似ていたのはディーク・スレイトン役のクリス・エリスでしたが)が、”We’ve never lost an American in space and we’re sure as hell not gonna lose one on my watch! Failure is not an option!”  と皆に檄を飛ばすシーンが誕生したのです。

           

          ”Failure is not an option” が多くの人に勇気を与える言葉であることは間違いないでしょう。ジーン・クランツ自身も、ミッション・コントロールの任務を的確に表現する言葉として ”Failure is not an option” が気に入ったようで、2000年に出版された彼の著書のタイトルに使っていますし、本の中でも、3か所にこの言葉が出てきます。ミッション・コントロールでは、実際には “option” ではなく ”workaround” という言葉が使われますが、この ”workaround” とは「選択肢、別の方法、マニュアルや説明書類には載っていない問題の解決策」であると、クランツはこの本の中で語っています。

           

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          “Failure Is Not An Option” にはジェット戦闘機のパイロットからNASAの管制官に転身し、多くの有人ミッションを経験したクランツの半生が書かれています。ジョン・グレンのフレンドシップ7 の帰還の際に緊迫した状況があったことをここここに書きましたが、この本で、クランツはそのとき地上でどのような動きがあったかをくわしく書き、フレンドシップ7のミッションは、ミッション・コントロールにとって大きな転換点になったと書いています。


          アポロ13号:ヒューストン、問題が発生した

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            Apollo 13Houston, we’ve had a problem

             

            今から48年前の1970411日、フロリダのケネディ宇宙センターから、アポロ13号が打ち上げられました。アメリカは前年の19697月に、アポロ11号による人類初の月着陸を成功させていました。次の12号も196912月に月着陸を成功させており、13号が打ち上げられたときには、すでに人々は月着陸に以前ほどの関心を示すことはなく、新聞の見出しも大きな扱いではなくなっていました。それだけに、ジェームズ・ラベル船長の ”Houston, we’ve had a problem” ではじまる危機的状況は、大きな衝撃でした。

             

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            上の画像は、事故発生後のヒューストンのミッション・コントロール・センター内の様子です。新聞やテレビもアポロ13号の事故を一斉に報道し、世界中の人々がかたずを飲んで地球への帰還を見守りました。

             

            アポロ13号の事故の原因は、液体酸素タンクの爆発でした。この液体酸素タンクはアポロ司令船・機械船(CSM)のプライム・コントラクターであるノースアメリカン・ロックウェル社の下請けのビーチエアクラフト社が製造したものです。液体酸素タンクにはサーモスタット付きのヒーター、攪拌ファン、温度計などが内蔵されています。タンクは2基が1セットになって液体酸素タンク棚に置かれ、機械船(SM)のベイ4という部分に設置されます。

             

            アポロ13号で爆発事故を起こした液体酸素タンク2(シリアル番号10024XTA0008)は、ビーチエアクラフト社で検査後、19675月にロックウェル社に出荷されました。10024XTA0008はもう1つの液体酸素タンク10024XTA0009と一緒に、19686月、アポロ10号の機械船SM 106に取り付けられました。しかし、その後の検査で不具合が発見されたため、SM106の液体酸素タンク棚は改修のために取り外されることになりました。ところがその際に、タンクの一部が変形してしまったのです。ただし、この変形は深刻なものとは考えられず、196811月、問題のタンク棚はアポロ13号の機械船SM109に取り付けられ、19696月にケネディ宇宙センターに運ばれました。

             

            SM109に取り付けられた液体酸素タンクには、もう1つ問題がありました。ヒーターについているサーモスタットは当初、28ボルトで作動するものが使われていましたが、その後、設計変更が行われ、65ボルトで作動させることになりました。ロックウェル社はビーチエアクラフト社に65ボルト用のサーモスタットに交換するよう指示していましたが、交換は行われていなかったのです。

             

            ケネディ宇宙センターでは1970316日に、アポロ13号のカウントダウン・デモンストレーション・テスト(CDDT)がはじまりました。このテストはタンクに実際に液体酸素を充填して行います。テスト終了後、液体酸素タンク2から液体酸素を抜く際に問題が発生しました。タンク内のパイプが変形していたため、液体酸素を十分に抜くことができなかったのです。そこで、タンク内のヒーターで液体酸素を暖め、気化させて抜くという方法がとられることになりました。

             

            サーモスタットは、タンク内の温度が80F27C)になると、ヒーターに流れる電流を遮断し、それ以上温度が上がらないようにするはずでした。ところが、28ボルト用のサーモスタットは65ボルトの電圧では作動しませんでした。このため、タンク内の温度は上昇を続け、作業中に1000F538C)に達したとみられています。その結果、電線を被覆していたテフロンがダメージを受け、電線の一部がむき出しの状態になってしまいました。

             

            タンク内がこうした状態になっていることは、当時、誰も気づきませんでした。アポロ13号の打ち上げ予定日は目前に迫っており、酸素タンク棚の交換は不可能でした。そこで、そのまま打ち上げの準備が進められ、411日、アポロ13号は発射台を離れました。

             

            地球から32kmも離れ、月に接近しつつあったアポロ13号から、「ヒューストン、問題が発生した」というラベル船長の通信が送られてきたのは、打ち上げから55時間55分が経過したときのことでした。このとき、以下のようなことが起こっていたことが、事故調査委員会で明らかになっています。

             

            打ち上げ後55時間5230秒、液体水素タンク1の圧力が低下しました。そこでヒューストンのミッション・コントロールは、このタンクのファンとヒーターのスイッチを入れるように指示しました。司令船パイロットのジョン・スワイガートはこの指示を確認し、スイッチを入れましたが、55時間5320秒、電流は液体酸素タンク2のファンをまわすモーターに流れたのです。この瞬間、むき出しの電線がショートして火花が散りました。液体酸素の急激な燃焼がはじまりましたが、この燃焼はテフロンが燃えることでさらに加速されたとみられます。

             

            55時間5336秒、液体酸素タンク2内の圧力が上昇しはじめました。55時間5431秒、液体酸素タンク2内の温度も急激に上昇しはじめました。55時間5445秒、液体酸素タンク2内の圧力は1008psia(約70気圧)に達しました。これらの現象は、液体酸素タンク2内で燃焼が進み、タンク内の温度と圧力が急激に上昇したことを示すものです。

             

            55時間5453.182秒、XYおよびZ軸方向の異常な加速が生じました。55時間5453.555秒から1.8秒間、アポロ13号からのテレメトリー・データが失われました。55時間5456秒、液体酸素タンク2の圧力を示す目盛はゼロを示しました。宇宙船の異常な加速とその後のデータの喪失は、タンクの爆発によるものです。ラベル船長たちが爆発音を聞き、異常事態に気づいたのも、このときでした。爆発は機械船のベイ4の外側のパネルを吹き飛ばし、液体酸素タンク1にも損傷を与えるほど激しいものでした。

             

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            爆発が起こったとき、スワイガートは自分の座席で計器盤を見ていましたが、ラベル船長は司令船の下部収納庫でテレビカメラをしまう作業をしていました。月着陸船パイロットのフレッド・ヘイズは月着陸船から司令船に戻るところでした。液体酸素タンク2の酸素は一瞬にして失われ、液体酸素タンク1の圧力もどんどん低下していました。機械船の酸素が失われるということは、生命維持および燃料電池による電力供給が不可能になることを意味します。こうして、地球帰還まで司令船の機能を停止させ、月着陸船を救命艇として使うことになりました。

             

            月をまわって地球に帰還する自由帰還軌道にアポロ13号を入れるための最初の軌道修正MCC-4Midcourse Correction No.4)は、61時間30分に行われました。アポロ13号が月をまわった後、アポロ13号の地球帰還を2時間早めて太平洋に着水させるための噴射PC+2hr79時間28分に行われました。105時間18分には軌道修正MCC-5が行われました。これらの軌道変更には月着陸船の降下用エンジンが用いられました。137時間40分、大気圏再突入のために最後の精密軌道修正MCC-7が月着陸船の姿勢制御エンジンを用いて行われました。

             

            司令船に戻ったクルーはまず138時間2分に機械船を切り離して破損の状態を撮影し、次に141時間30分に月着陸船を切り離して、142時間41分に大気圏に再突入しました。こうしてアポロ13号は142時間5441秒(417日午後1741EST)に無事、太平洋に着水したのです。

             

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            大気圏に再突入したアポロ宇宙船が、雲の合間からパラシュートで降りてくるシーンをテレビで見たときの強烈な印象を、私は今でも覚えています。

             


            天宮1号の大気圏再突入は4月1日か2日

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              Tiangong-1 will Reenter the Earth’s Atmosphere around April 1

               

              天宮1号の高度が低くなり、まもなく大気圏に再突入する見通しです。ESAなど複数の機関の予測では、日本の時間帯で41日か2日の可能性が非常に高くなっています。

               

              ESAによる330日現在の天宮1号の高度と再突入の予測は下の通りです。

               

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              天宮1号は約90分で地球を1周しています。どの周回で再突入するかまではまだ予測できません。したがって、地球のどこに破片が落下することになるかは分かりません。落下する可能性のある領域やそのリスク等については、ここをご覧ください。

               



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