日本学術会議第一部の問題点

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    日本学術会議には2005年に大きな改革がもたらされました。しかし、日本学術会議は今も問題を抱えています。その根幹は第一部(人文・社会科学系)の会員の選考にあるようです。

     

     

    日本学術会議の構成は2005年に、それまでの7部制から第一部(人文・社会科学系)、第二部(生命科学系)、第三部(理学・工学系)の3部構成となりましたた。会員の選出方法も、当初は直接選挙制だったものが、1985年には登録学術団体からの推薦制になり、さらに2005年には日本学術会議に設置された選考委員会が次期会員を推薦するというシステムになりました。

     

    ここに書いたように、初期の日本学術会議の活動には民主主義科学者協会(民科)とつながりのある人達が大きな影響を与えていました。民科自体の活動は長くは続かず、1950年代の中頃には衰退していきました。しかし、その民科の中でその後も活動を続け、現在に至っている法学分野の学会があります。ここではMH部会とよんでおきましょう。現在の日本学術会議第一部(人文・社会科学)にはMH部会の会員がたくさん選ばれています。

     

    日本学術会議第一部(社会科学)の会員数は70名です。そのうち法学分野の会員は各期で15名ほどいます。その中でMH部会に所属していると考えられる会員の数を、MH部会が発行する雑誌に掲載されている役員名などから調べてみると、次のようになりました。

     

    22期(2011〜2014年)が5名、23期(2014〜2017年)が5名、24期(2017 〜2020年)が6名。25期(2020〜2023年)も6名のはずでしたが、新規に会員になるべく推薦された3名が任命されていません。

     

    『学会名鑑』によると、2019年のMH部会の会員数は530名となっています。これほど少数の会員しかいない学会でありながら、日本学術会議の法学分野で、常に3分の1以上の会員がMH部会に所属しているというのは、明らかに普通ではありません。

     

    日本学術会議の第二部(生命科学系)および第三部(理学・工学系)では、研究者の発表した論文をベースにしたきわめて厳正な選考が行われ、新たな会員が推薦されています。しかし、第一部の選考委員会ではそのような客観的な評価は行われていないようです。

     

    第一部の選考委員会による推薦結果には大きな問題があるといわざるをえません。


    初期の日本学術会議に影響を与えた団体

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      1949年1月に誕生した日本学術会議の目的は、政府と科学者が力を合わせて国の復興を果たしていくというものでした。しかし、日本学術会議は発足時から、ある政党の介入を受けることになったのです。

       

       

      日本学術会議は7つの部から構成されることになりました。第一部(文学)、第二部(法学)、第三部(経済学)、第四部(理学)、第五部(工学)、第六部(農学)、第七部(医学)です。会員数は各部30名の合計210名。選出方法は登録された研究者による直接選挙でした。そのための選挙が行われ、1948年12月22日に選挙結果がでました。

       

      この選挙結果に大きな影響を与えた組織がありました。それが民主主義科学者協会(民科)です。

       

      第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下で思想、言論、集会の自由が認められると、日本共産党は活動を再開。勢力拡大のために文化や学術などの分野で「民主戦線」構築を目指しました。その一環として1946年1月12日に結成されたのが民科です。民科の中心的なメンバーは日本共産党員か日本共産党の影響を強く受けた人物で、目的は科学者(社会科学者も含む)の間に日本共産党の支持者を増やしていくことでした。

       

      民科は組織力を生かして選挙活動を行い、日本学術会議に多くの会員を送り込みました。第1期の会員に選ばれたのは、第一部4名、第二部5名、第三部5名、第四部8名、第五部2名、第六部2名の合計26名でした(福島要一『「学者の森」の四十年』)。全会員数210名のうちの1割以上が民科推薦のメンバーだったのです。

       

      民科から選ばれた会員の中でも福島要一、井尻正二、坂田昌一、武谷光男など何人かは、日本学術会議の運営に強い影響力を及ぼしました。

       

      福島要一(1907〜1989)は民科の創設メンバーの1人で、農学分野を基盤に日本学術会議に進出しました。日本学術会議会員を第1期から第12期(1981〜1985)まで(11期を除く)つとめ、各種委員会の委員長や幹事、運営審議会のメンバーとして日本学術会議の多くの決定に関わりました。

       

      日本共産党員だった井尻正二(1913〜1999)も、日本学術会議で絶大な影響力を発揮した人物でした。井尻が1947年に創設した地学団体研究会(地団研)は1949年に民科に加入しました。井尻は民科の創設メンバーではありませんでしたが、民科の支持を得て、会員に当選しました。地団研は一時期、日本地質学会を事実上支配するほどの力をもち、井尻は日本の地質学を自らの唯物思想の下に置きました。1970年代にはアメリカでプレートテクトニクス理論が登場しましたが、井尻はこの理論を「資本主義の理論」として認めず、地向斜による造山運動理論にこだわり続けました。地団研でプレートテクトニクス批判をつづけたのが藤田至則です。

       

      井尻のために、日本ではプレートテクトニクス理論の導入が世界に比して10年ほど遅れてしまいました。それだけでなく、日本の地学教育にも混乱を及ぼしました。地学の教科書から地向斜理論がまったくなくなったのは1995年のことでした。それまで地学教育の現場では、すでに古くなり間違った理論である地向斜理論を教えなければいけなかったのです。

       

      坂田模型で世界に知られる素粒子物理学者の坂田昌一(1911〜1970)は、素粒子物理学には弁証法が成り立つと主張していました。革命後の中国にあこがれ、中国を訪問し、毛沢東に会っています。坂田は民科の創設メンバーの1人で、日本学術会議第五部の原子核特別委員会委員長および原子力問題委員会委員長として、当時はじまった日本の原子力研究に対する日本学術会議の発言に影響を及ぼしました。

       

      武谷光男(1911〜2000)も民科の創設メンバーの1人で、坂田昌一と同じ湯川グループに属していました。

       

      日本学術会議のメンバーの多数は特定の政党の主義主張に同調しているわけではありませんでしたが、これらの人々によって日本学術会議に政治がもち込まれることになったのです。1970年代には日本学術会議=民科というイメージが科学者の世界のみならず、その周辺にまで広く定着しましたが、良識ある科学者がこうした状況に警鐘を鳴らすことはありませんでした。不用意にそのような発言をすれば、研究者生命を奪われてしまうおそれさえあったからでしょう。

       

      少数の人たちが長年にわたって日本学術会議を動かしている事態を見かねた政府は、1985年に会員の選出方法を学協会による推薦方式に変更しました。また、3期以上会員をつとめたものは、会員になれないことになりました。

       

      こうして、日本学術会議が創設以来抱えてきた問題は解決しました。しかし、問題がこれで終わりになったかどうか、それは別途検証しなければなりません。

       


      日本学術会議はいかにして誕生したか

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        日本学術会議が発足したのは1949年1月のことです。日本学術会議がいかにして誕生したかをみてみましょう。

         

         

        第二次世界大戦後、文部省は戦前からあった学術機関、すなわち帝国学士院 、学術研究会議、日本学術振興会の三つを、新しい時代に沿うように改組することを検討しはじめました。

         

        一方、占領軍司令部GHQも研究者の新組織をつくることを考えていました。GHQ科学技術部による指示で、1946年6月に茅誠司、嵯峨根良吉、田宮博で構成される科学渉外連絡会が設立されました。科学渉外連絡会は1946年11月に検討結果を報告。これを受けて、GHQ科学技術部は文部省、学士院、学術研究会議、日本学術振興会、科学渉外連絡会の代表者を招き、全国の科学者の総意にもとづく新体制づくりを指示しました。

         

        1947年1月17日に学術研究体制世話人会が結成されました。この世話人会は法学、文学、経済学、理学、工学、農学、医学の専門など44名で構成されていました。この7つの部門は当時の東京大学の学部構成にならったもので、やがて日本学術会議発足時の構成に受け継がれていきます。

         

        1947年8月25日には、学術体制刷新委員会が設立されました。この委員会は上記7つの部門から選出された各15名と総合部門からの3名、合計108名で構成されました。委員長は兼重寛九郎でした。1948年3月27日に学術体制刷新委員会は最終案を議決しました。その骨子は以下の通りでした。、

         

        ・日本の科学者の代表機関として、新たに全国各分野の科学者から選出された210名の会員で構成する日本学術会議を設立する。これにともない学術研究会議は廃止し、日本学士院は栄誉機関として日本学術会議内に置く。

        ・内閣に科学技術行政協議会を設け、政府と日本学術会議との連絡および各省間の科学技術行政の連絡に当たらせる。

        ・日本学術振興会は、私的性格を有する学術奨励団体として残す。

         

        これをもとに1948年7月10日に日本学術会議法が公布され、約4万3000名の科学者による大規模な選挙が行なわれました。

         

        そして1949年1月20日に日本学術会議法が施行され、日本学術会議がスタートすることになったのです。

         

        日本学術会議法の前文には以下のように書かれています。

        「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」

         

        すなわち、日本学術会議は終戦直後の焼け野原の中で、新時代の科学研究を推進し、国と科学者が力を合わせて国の復興を果たしていくことを目的として設立されたのです。

         

        日本学術会議は7つの部から構成されていました。すなわち第一部(文学)、第二部(法学)、第三部(経済学)、第四部(理学)、第五部(工学)、第六部(農学)、第七部(医学)です。会員数は各部30名、合計210名でした。初代会長は応用化学者の亀山直人でした。会員の選出方法は、登録された研究者による直接選挙でした。このため、この時代の日本学術会議は「科学者の国会」とよばれたのです。

         

        日本学術会議は「科学者が戦争に協力した反省から生まれた」とよく言われますが、これが事実でないことは上の経緯を見れば明らかです。ではなぜ、そのような誤解が広まったのでしょうか?

         

        1949年1月22日、日本学術会議第1回総会の3日目に、「日本学術会議の発足にあたつて科学者としての決意表明(声明)」が議決されました。この声明では以下のように書かれています。

         

        「われわれは、これまでわが国の科学者がよりきたつた態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである。そもそも本会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達をはかり、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とするものであって、学問の全面にわたりそのになう責務は、まことに重大である。」

         

        すなわち「反省」とは、日本学術会議発足後に出てきた言葉です。この声明に関しては、改めて説明したいと思います。

         


        日本学術会議とは

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          日本学術会議の新会員候補6人の任命が拒否された件が社会的な話題になっています。日本学術会議には以下のような問題点があります。

           

           

          最大の問題点は、この組織が3つの部、すなわち第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)から構成されていることです。全米アカデミーにみられるように、科学の学術団体に人文・社会科学が入っている例は先進国にはありません。社会科学がアカデミーに入っている例は共産党政権下のソ連にみられましたが、もちろん、現在のロシアではそのような組織にはなっていません。1949年にスタートした体制のままの日本学術会議で、科学と技術が爆発的に発展していく21世紀に対応できるでしょうか。

           

          第2の問題点は、組織が巨大化してしまったことです。現在、会員は約200人、これに連携会員約2000人が加わり、さらにこの組織を運営するための職員が働いています。幹事会の下には幹事会附置委員会が5、分野別委員会が30、機能別委員会が4、課題別委員会が11あります。このような巨大組織で、急激な社会変化に即応できるでしょうか。

           

          第3は、新しい会員の推薦が会員によってなされるというシステムになっていることです。つまり、仲間うちで後任を決め、既得権益を守るという組織になりかねない危険性をもっています。

           

          第4は、科学の新しい研究計画に関して明確な反対の立場を表明し、研究の自由や科学の発展を阻害するような提言を発表する組織になっていることです。2018年の「国際リニアコライダー計画の見直し案に関する所見」がその例です。


          銀河鉄道をめぐる旅

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            宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をめぐるツアーを企画しました。

             

             

            岩手県花巻市で賢治ゆかりの場所をめぐり、奥州市では国立天文台水沢VLBI観測所を訪問。「天気輪の柱」のモデルとなった天頂儀を見学、さらに本間希樹先生からブラックホールについてのレクチャーをいただきます。

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            メアリー・アニング:古生物学の母

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              Kevin Adams - Mary Anning of Lyme

               

              大英自然史博物館について調べているうちに、ふと出会ったのが、ケヴィン・アダムスさんのニューアルバム” Mary Anning of Lyme”でした。メアリー・アニングは19世紀の化石ハンターで、魚竜のイクチオサウルスや首長竜のプレシオサウルスの全身骨格の発見者として知られています。

               

              https://kevadams.bandcamp.com/album/mary-anning-of-lyme

               

              1799年、ドーセット州ライム・リージスに生まれたメアリー・アニングは11歳の時に家具職人だった父親を亡くし、一家は貧しい状態に陥ります。メアリーはジュラ紀の地層が露出した海岸で化石を探しては、これをコレクターに売ることで生計を立てました。化石の採集法について父親に教えてもらったことが役に立ちました。

               

               

              当時はイギリスで古生物学が誕生する時代で、リチャード・オーウェンが恐竜という言葉をつくったのもこの頃です。アニングが発見した化石標本は、現在は絶滅してしまった生物がかつて地球上に生きていたという、今では当たり前の考え方が社会に浸透していう上で、大きな役割を果たしました。

               

               

              このアルバムはどういう経緯でできたのか? ケヴィンさんとはどういうミュージシャンなのか? ケヴィンさんにメールを送ったところ、すぐに返信がきました。ケヴィンさんはイギリスのフォーク・ミュージシャンで、以前はライブ演奏などをしてきましたが、多発性硬化症という難病を発症し、現在は自宅のスタジオで音楽を書いたり、録音をしたりしているそうです。

               

              2018年に” A Crossword War”というアルバムを発表した後、メアリー・アニングのプロジェクトを提案したのが友人のコリン・ホワイト氏でした。ホワイト氏は科学者であり、ライム・リージスからそれほど遠くないエクスターに住んでいました。ケヴィンさんはそれまでメアリーについて少ししか知らなかったそうですが、彼女について知れば知るほど魅了されていきました。メアリーは読み書きができる以上の正式な教育を受けていませんでしたが、自ら学んで熟練した古生物学者としての知識を得ました。女性の役割が出産や家庭を守ることでしかなかった時代に、科学の世界で大きな貢献を果たしたのです。ケヴィンさんはさらに古生物学や化石そのものにも興味をもつようになったそうです。

               

              このアルバムでは、メアリーと父のリチャードが言葉を交わしながら、曲が進み、プレシオサウルスを発見する” The Plesiosaur”へと物語が展開していきます。それは同時に、ケヴィンさん自身が時空を超えてライム・リージスへと思いをはせていくプロセスでもあります。そして太古の生物が化石となり、長い時間の果てにメアリーに発見されるという、壮大な地球の営みを主題にした” Earth, Air, Fire, Water”で終わるという構成になっています。アルバムのジャケットのライム・リージスの写真を眺めながら、聴き入ってしまいました。

               

              新型コロナウイルスによるロックダウンの下でも、多くのアーティストが素晴らしい仕事をしたことと思います。このアルバムもその1つといえるでしょう。ケヴィンさんの制作スタイルからして、ロックダウンは大きな障害にはならなかったそうです。メアリーの声はケヴィンさんの妻のルースさん、リチャードの声はケヴィンさん自身です。フルートと笛とリコーダーは友人のシーナ・マッソンさんが自宅で演奏し、電子ファイルで送ってくれました。「ですからアルバム全体はとてもホームメイドです」とケヴィンさんは語っています。

               

              なお、メアリー・アニングを主人公にしたケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナン主演の映画『Ammonite』が最近話題になっていますが、ケヴィンさんのアルバムはこれとはまったく関係がないそうです。



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